古谷×柴崎アーティストトーク


吉祥寺 百年で「人体/動き/キャラクター」アーティストトーク。古谷利裕×柴崎友香へ。面白かった。下記はそのトーク内容の影響を受けて自分の中で(これを書いてる今)勝手に考えたことだが、絵を描いていて、ある形状、またはあるフレーズ、あるひとかたまりの単位というものを意識する以前と以後では、描いているときの認識の質がまず大きく違うし、さらに絵の同一画面上に、その単位を反復させるということを、許すか許さないかでは、また大きな差があると思う。普通は一画面内に一つの空間を描くわけで、そこになぜか得体の知れない(その空間内に所属しない)ある形状、またはあるフレーズ、あるひとかたまりの単位というものが認識されてしまう段階と、それをあえて複製して恐れ多くもその同一画面内に配置してしまおうとする段階で、それぞれ大きなジャンプがある、ということだ。


反復というのは、何しろそれをやるだけで気持ちが活気付くし、もういくらでもやってしまって良いと思えるところがいい、などと思ったりもする。いやいや、さすがに、何も考えずにいくらでもやってしまったら、何かが壊れてしまうのでは、と思うのだとしたら、それはまだ、反復が許されていない空間に住んでいるからだと思うが、でも、じゃあお構いなしに、いくらでもそうしてしまっていいのか?と言うと、それも結局、じつはそうでもない。それでちゃんと新しい地平が開けるというわけではない。そこが、難しいところだ。


あらためて展示作品たちを思い出してみて、あれは反復でもあるけれど、反復であると同時に、それ自体の、一個の孤立、みたいなことなのかなあと思う。そういうことが両立してしまおうと、しているのかなと。自分は奥のタブローは、やはりかなり好きで、とりあえず「反復」というのは「唐突性、出し抜けにあらわれる勢い、木に竹を接いだような、暗闇から牛みたいな、いきなりの滑稽さ、場違いな感じ」というものとは相性が悪く、そういう感触を薄めてしまいがち、という感じを僕は個人的に思っていたのだが、しかし奥のタブローは、反復でありながらかなりの「唐突性…」があって、これはかなりいいんじゃないかと思っている。しかし、また、そういうことでもない場所へと、あれらの作品群は向かうのかもしれない。


…以下、ほぼ別の話題だが、自分が最近書いていた文章の中の一部に「私は重力に逆らう」という要素と、「私は後悔してない」という要素と二つあって、今日たまたま、そのどちらにも似た、誰かがほとんど同じことを言ってると思うような話題を見つけた。最近の(自分の"作品"みたいな、僕自身が何がしかの執着をもつ、何かの一塊…を作っているらしき)自分が、そういう「エピソード」の質感と形式(キャラクター性?)に対して、異様に敏感になっているのだな、と思った。「重力に逆らう」という話は、今日のトークのどこかで出てきた話のなかで、自分が、あ、この話って…みたいに感じたということなのだが、「私は後悔してない」というのは、ネットでたまたま見た「後悔ができない」(http://anond.hatelabo.jp/20151023203207)という記事。僕が書いている文章の中に出てくる登場人物が、この内容とほぼ同等のことを言ってる箇所がある。とはいえ、今読み返すと、とくに後半は少し違うかも。川の流れに乗っているような感覚ではあるが、「生きているのか死んでいるのか良く分からない。」というわけではない。「ただ単純に感情が湧いてこない。」わけでもない。最初は後悔することを異常に恐れているので、むしろその段階こそが一番後悔モード、しかも後悔の実体は無い、みたいな感じなのだが、それから時を経て、年を重ねたら、結局、後悔に値するだけの過去をほぼ思い出せないので、それでかえってサバサバと爽快に生きてしまっている、みたいな感じだ。