僻説俗論


青木淳悟「僻説俗論 明治十年が如く」三田文学No.130(2017年夏季号)を読んだのは数日前のこと。西南戦争前後の明治時代。歴史の読み物として、ふつうに面白く読めてしまう。新聞や今で言うゴシップ系新聞雑誌の駄洒落系見出しや記事の引用が興味深い。というか、読んでいて昔の気がしない。おそらくこの作品中にはかなり強烈なマスコミ批判の側面もあると思えるというか、そう捉えてかまわないとさえ感じられる。上っ面を撫でて躁的によろこぶ浅墓さにおいて、百年あまりの時空を越えて、今も昔もマスコミという存在は、全く不変であり普遍的な一貫性を保持している。今後もきっと、未来永劫、このままなのではないかと思われる。というか、これだからこそ、マスコミなのではないか、こうじゃなければ、マスコミじゃないとさえ、言えるかもしれない。


それにしても、書く/語ることそのものが、勝手に戸惑っているというか、行為に逡巡しているかのような、明治とか西郷とかの選択されたテーマとはほとんど無関係な、描かれていること自体の、つい笑えてしまうような、どうも真剣な演技のふりができない、もっともらしさへに対する羞恥というかそれを無意識に避けようとしているというか、ゆえに違和感や座りの悪さをそのままにしてしまいたいような、青木淳悟的味わいは、いつもの通りだ。書いている小説家が、自らの自意識として恥ずかしがってるとか、そういう意味ではない。もしそうだとしたらそれほど変な感触にはならないと思う。もっと根本的な、書き手がいて、書かれたものがあって、読み手がいるという、根本的構造そのものからズレたい、ズレてしまう、みたいな感じだろうか。それが、このような典型的歴史小説的なテーマを用いて行われているところに。


まだ西郷が討ち死にする三日前の時点で、西郷星と称した「ちょっといい話」が流行るとか、驚き呆れるようなエピソードだが、どこかもの哀しさのある、結局は「いい話」に感じてしまう自分もいる。書かれたもの、生きた人、木戸は怒ってるし、板垣退助は一つの肉体で何十代も継続して「自由は死んだけれども、なかなか死なない」人物と化しているし、どの登場人物も、別に今までのおびただしい数描写されてきた物語や歴史系書物内で人物像や表現のされ方とことさら違うわけではなく、情緒的な訳でもないけど淡々としてる訳でもなく、というか書かれたものに一貫して一定のトーンが彩られているとは、そもそもどういうことなのか、文字を重ねて連ねることで、ある茫洋とした大きなイメージをもたらしたいと思って字を書く、のではない理由で字を書く人もいるだろうし、書かれたものもあるだろう。それは一体、誰が何の理由で、書くのか、なぜその書き方で、誰に対して書いたというのか。それは、そもそも何がしたいのか、という部分も含めて作品にする、しかもそれを目的化しない。でも、書くことは書く、書いた、とりあえずそれが、この小説では西郷であり、明治十年前後である。刊行年とか享年を並べていくことによって、感情的なものを中和していくのが、歴史の読み物の如何にもな形式的強さ、かもしれないとも思う。


夜遅く帰ってきて寝る前にしばらくリビングにいたら妻が起きてきた。深夜三時とかそのくらいの時間だったと思うが、このまま起きるのだという。なぜかというと、世界陸上を見るから。ああ、その季節がきたのかと思う。交代するみたいに自分は寝室へ行く。ずっとテレビを見てるのって、面白いわね。なんだか、楽しいことがいつまでも続いているみたい。誰かが、夢の中でそう言ったのを聴く。