人のセックスを笑うな


何かをつくりたい、形にしたいという衝動に駆られたとして、しかし何をどうすれば良いのか具体的には何もはっきりとイメージできなくて、しかし「でもかたちにしなければいけない!」という自分自身への強い命令が発令されるとき、なぜそう思うのか。


去年「いないことを救う」というタイトルで保坂和志カンバセイション・ピース」のことを書いたときの引用「言葉を何度でも練り直し、同じことを何度でも考え直し、何度でも何度でも執拗にやり直さなければならない理由は何か?というと、それはいないことを救うためで、そのために言葉を、というより思考を、弱さから隔てて、それ自体として弱くない何かにしてあげなければならないからだ。」


はっきりとイメージできないから、それを救わなければいけない。ほんの少しだけでも、こちら側にいてほしいと思うから、書くのである。しかし、こうも言える。はっきりとイメージできないのだが、でもその時点で「救わなければ」と思っている時点で、その対象はそれだけの分、すでに今、そこに居るのだとも言える。実在したと言っても良い瞬間が、そこにはあるのだ。そういうことがありえる。


おそらく「イメージさせたい」のではない。考え方が、逆なのかもしれない。むしろ、ほっとけば勝手に「イメージされてしまう」のを、何とかして、そうではない状態にする、という事なのかもしれない。イメージなんていうのは、ある意味、とてもつまらないものなのかもしれない。少なくとも「イメージ」などという言葉で安易に話ができてしまう時点で、相当陳腐な型式の代名詞でしかないはずだ。イメージという言葉がすでに、何かの器みたいなものとして利用されるために待機状態な時点で、全然つまらないのだ。そんな陳腐な器に、僕の大事な何かをおさめなければならない義務など無い。


大事なのは、何かを作り上げたい、構築させたい、ということではなく、むしろ、それがかつて在った、のかもしれない、そう思いたい、ということを、なるべくはっきりと何度でも感じたい。そこへもう一度連れて行ってほしい、というようなことなのだ。それは、この私がこれから何かを作ります。みたいな能天気な話とは、全然無関係である。それは、ただひたすら、今ここと、今ここにいる私、というものから、身を引き離すようなものの考えかたの事である。


だから、目的がはっきりしないまま、それでもとにかく何か、人が行動する衝動に駆られることがあるとしたら、人をその衝動に駆り立てるのは、そう思わせるだけの、イメージ以前の「魅力」ということではなくて、何らかの「執着」と言い換えても良いのかもしれない。あるいは「未練」とか「復讐心」とか言っても良いのかもしれない。


急に物騒な言葉になってしまうが、個人的に僕がすぐれていると感じさせられる作品というのは、基本的に作者の「執着」の力が半端ではないものがほとんどで、たとえば先週読んだ、山崎ナオコーラ人のセックスを笑うな」という小説などもまさにそういう作品だった。すごく驚かされた小説。大好きな小説に出会えた。ある動かしがたい強い記憶の力というか、絶対に消し去ってはいけない、という強烈な思いが、激しく結晶化していて、圧倒的なパワーに一々殴られるような衝撃を感じ続けながら読んだ。


「執着」「未練」「復讐心」などというと如何にも嫌な感じだが、でもそういう深い力も感じさせつつ、同時にすべてを水のように受け入れて流していく軽くて透明なあきらめのような淡々とした水流が地下に静かに豊かに流れているような感じとでも言えば良いのか、いずれにせよそういう、まずそれが今すでに「ない」ということを、書く事で掬い(救い)とって、かろうじて作品に結晶させた感が、素晴らしい。結晶させることだけを目的にして、妥協無く徹底してやり遂げ、その後で、とりあえず小説的な形式とか「イメージ」みたいなものを、必要に応じて呼び出して、過去の資産同士が各部位で最適解を勝手に形成していくに任せて、勝手にかたちにおさまって、忘れた頃に小説としての形式をそなえて、人目にさらされる体裁を整えた「人のセックスを笑うな」という小説作品になった。そのような幸福な運動が起こったということの記憶でもある。


でも、くどいようだが肝心なのは、小説とか何とか、そういう事よりももっと全然切実なことが、ありったけの本気で書いてあって、それだけで充分だし、それ以上の余計なものは何もいらないという事を突きつけられるような作品だということなのだ。とにかくこれが書きたい、石に噛り付いてでも作りたい、というところから、すべてが始まって、「小説」とか「作家」とか、そういう枠組みが後から呼ばれてきた。こういう小説というのは、作家と呼ばれるような一人の人間でも、一生に一度くらいしか書けないような類のものなのではないか?とも思った。


それ以来「男と点と線」「長い終りが始まる」と続けて読んで昨日読み終わって、以前にも「論理と感性は相反しない」とか「この世は二人組ではできあがらない」も読んでいるのだが、そこまで読んだ時点でやはり「人のセックスを笑うな」が突出しているように思う。というか、突出しているのではなくて、それだけが、まったく特別な感じがする。読む前、正直言って「人のセックスを笑うな」というタイトルがあまり好きになれなかった(だから今まで読まなかった)のだが、いまや、素晴らしいタイトルとしか思えないのだから僕もころっと手のひらを返すものだ。