Prego!Prego!

夜の新宿でMさんWさんFさんと食事会。僕は皆さんと完全初対面だったのだが、我ながら呆れるほどリラックスした楽しいひとときを過ごしてしまった。本当にありがとうございました。

「書く人」と実際に会ったときの印象の違い、書く人の文体から感じられるキャラ性というか、リズム感や癖のようなものがもたらす固有な感じというのは、当然のことだろうがその本人と会ったときの、人物の様子や仕草や声や物腰がもたらすものとは違っていて、書かれたもののキャラ性と書いた本人のキャラ性はまったく無関係で、しかし書かれたものを事前にたくさん読んでしまうと、いざその書いた本人にお会いしたときに、そのギャップにしばしば戸惑う、みたいな話を最初Wさんとしていたのだが、その後FさんとMさんがあらわれ、テーブルを囲んでご挨拶などを経て「ああー…なるほど」と不思議な感慨をおぼえた。文も音楽みたいなものでリズム感とかスピード感のセンスは如実にあると思うが、Mさんの場合、ああこの人の醸し出すこのとても好ましい抑揚とテンポ感こそ、あの文体に反映されているのではないかと、特別な配線によって話す速度と書く速度が同期しているかのような、すなわちあれらの言葉は、今こうして話されているかのように演奏するように書かれているのではないかと想像がふくらんだ。

おそらく彼にとっては無意識で自然な物腰態度なのだと思うが、非常に柔らかい抑揚で適宜話題を出しつつ参加者全体への配慮がずっと効いているこの感じが、まさに「調停者」たるMさんの面目躍如というか、ああ、まさにこれだと、今まで何度も描かれてきたいくつもの場面での主人公Mさんの振る舞いそのものなのだと、ついに「ライブ」で見たという思いがあった。まあ、ああいう場に参加してるとこれまでの自分がいかに本を読んでないかがバレバレになるわけで恥ずかしいと言えば恥ずかしいのだが、それでもMさんを中心として俎上に乗る本や作家や音楽家などがめまぐるしくしかし流れるようにスムーズに話題にのぼって展開していくのは本当にすごい。というか、好きな作品や作家や何かについて「だけ」をひたすら語り合う時間だなんて、僕もふだんこんな面白い話を延々し続けていられる経験などまずできないので、それだけ余計に楽しく、犬のハアハア喘ぎながらはしゃぎたいような思いで過ごした。

Wさんは前日まで直島の岡崎乾二郎ワークショップに参加されていたそうで、えー!すごいその話是非詳しく聞かせてくれませんかという感じだったのだが、その後も定期的にロシア武術システマのレッスンを受けている話とか、「米の炊き方教室」を受講されたとの話とかも出てきて、およそ一人の人物が受講するレッスンのラインナップとしてこれら対象を並べたときの凄み…。何とも知れぬ、しかしある強い確信に満ちた、生存において必要な基本条件獲得の意志を目前に示されたかような、謎の迫力があるというか…。

「米の炊き方」で焚かれた米の状態についてWさんが話されているとき、僕は先ほどのシステマにおいて打撃を受けた肉体が訓練によって痛覚を分散させるという話を思い起こしていた。それは…つまり…分散の力が、つまりは釜の熱および水分と米との関係も、あるいは…などと想像したのだが、それ以上まとまらず、口には出さなかった。(たぶん口に出さなくて良かった。)

Fさんについては、じつは今これを書いているのは翌日の2/6なので、今朝すでにFさん自身による昨晩についての記事をさっき読んでいて、今朝の僕はすでに彼にお会いして彼の姿や声がつくる存在の感じを知っている、そのことから来る未知の不思議さを味わっていた。引用した箇所は、昨日の午後にMさんとFさんが久しぶりの再会を果した場面だ。以下に引用させていただく。

乗客たちが出ていったそのあとから鷹揚に出て、携帯電話を見るとMさんからメールが入っていた。立川に着いた、まだ改札は出ていない、ケーキ屋と焼きそば屋が近くにあると。ちょうどこれから上がって行く階段の先に焼きそば屋があるのを知っていたので、すぐそのあたりにいるのだなと判断。そうして階段を上り、きょろきょろと見回していると、三番線・四番線ホームへの下り口の横にそれらしき姿を発見し、近寄って行った。やはりそうである。Mさんはパンを食っていた。見たところ、胡桃か何かのパンではなかったか? わからないが。むしゃむしゃやっている彼の前に近寄り、無言で立ち止まり、相手が気づくと笑みを浮かべた。本当は最初に、お久しぶりです、また会えて嬉しいですと握手しようと思っていたのだが、何か話しかけられてそのタイミングを逸してしまった。

ここに書かれた、2/5午後のことだと思われる情景が、今の自分にはまるで実際にその光景を見たかのように目に浮かんでくる。それはFさんの記憶による昨日の午後の出来事でもあるけど、それと同時に、僕が昨晩、初対面で挨拶した二人の姿の記憶とFさんの記憶(からなる文章)とを、僕の頭の中でミックスして作り出した、僕が勝手に作った映画のワンシーンのようなイメージでもある。

対象を「細部まで一つ残らずおぼえてしまいたい」という思い、その欲望はとてもよくわかる。そしてまずは徹底的に反復して聴きこむとか、本当に暗記してしまうというのも、一つの方法としてありだとも思う。というよりも、そうでもしなければ気持ちがおさまらないような気にさせるのものが、少なくともその人にとって切実な作品だということだろう。

暗記するというのは、自分の中にそれを固定化して貯蔵してしまおうとするわけではないのだろう、むしろ何度でも迅速に軽快にそれを記憶から呼び出して参照できるように、あたかもディスク上の記憶からメモリ上の記憶に置き換えるかのごとく、自分の脳内のすぐ近くにそれを置いておきたいとでもいうような欲望ということだろう。

音楽でも絵画でも小説でも、ほとんどの作品はおそらく何度でも読まれることが前提で作られていて、読み込まれるごとにそれを体験する人にとって違った様相を見せるのも前提としてあるのだと思う。たとえばある一曲を何度も聴いて、やがて聴き飽きてしまうことはあるけど、その飽き方ですら一様ではないし、忘却もまた、まだら状の固有な模様で進攻していくのだろう。実際、本も映画も、何十冊何百冊と読んでも、呆れるくらい何もかも忘れてしまって、残るものはほんのわずかだ。だからこそ、その都度、何度でも出会い直すようなものだろうと思う。

直接関係ない話かもしれないが、松本卓也の本に出ていたような気がするのだが、ラカンにまつわる話を思い出した。非常に大雑把というか、間違っているかもだが、対象を認知するとき、それは通常なら象徴界に収まるがゆえに、それは時間の経過と共に減衰して消えていく(まさに文字通り忘れてしまえる)。つまり、それが「無い」不足・欠如していると言うことができる(その本が無い、その人がいない…)。しかし精神病の患者にとって対象は現実界にあり、ゆえにそれはいつまでも消えず、欠如が生じない。ゆえにそれはいつもある(その人がいつでもどこでも、常にいる…)。

この秩序の崩壊イメージは、不気味さと強い恐怖感を感じさせるが、同時にどことなく幽霊的な、物悲しい何かが含まれているようにも思う。忘れてしまえないことは、時間が停止しているということで、それは生の停止=幽霊の領域に触れることなのかもしれない。

逆に言えば「忘れてしまった」というのは、欠如の枠だけは認識できている。じつはその欠如の予感だけがひたすら蓄積されていくのが読書(に限らない、ありとあらゆる経験すべて)なのかな…などと思ったりした。

宴は十一時近くまで続いたのち終了。前夜からハードな移動スケジュールだったMさんはけっこうお疲れだったのではないか、けっこう遅い時間になってしまって、なんだか自分ばっかりが楽しみすぎたのではないかと今になって不安をおぼえなくもない。皆様ありがとうございました、おやすみなさい。また次回、次々回があることを切に期待して…。