現実

2006年頃にここに引用した保坂和志「羽生  21世紀の将棋」を読み返していて、今の興味に引きつけてところどころを書き換えてみた。しかし文意というか内容はほぼ変わってない、はずと思う。

 

https://ryo-ta.hatenadiary.com/entry/20060715/p1

最善の手というのは、考えるものではなくて見つけ出すものなのだ。それは人間の主体性に任された自由な手順なのではなくて、局面に隠されている(=既にある)手順なのだ。

 

将棋と音楽はどちらも固有の法則を持ち、それに乗って動きはじめたら、個人の「こうしたい」「こうしたくない」という意図を越える。

 

どう指せば「私」がよくなるかではなくて、この場所で両者が最善をつくすとどうなるかということ。

 

悪いと自覚していても最善の手順を指す事。

 

2400メートルの競馬で、逃げ馬が2300メートルまで先頭を走っていても、最後に後から来た馬に差されてしまえば、逃げた馬を「2400分の2300は勝っていた」とは言わない。形勢判断とは、たんに逃げ馬が先頭を入っている様子を示しているだけのことなのかもしれない。

 

ひとつの基盤上で、性質の異なる計算が錯綜して、何事かが決まろうとするとき、これらの要素を、明快に、誰もが納得するように、客観的に、評価する方法はない。それはたとえば、絵画を線・色・構図・題材・・・・・・etcの要素に分けて、点数制にしてみても何の意味もないことに似ている。

 

重要なのはまず、両者が間違えずに最善の手順を尽くすことだ。それゆえ、両者の想像は、ほぼ完全に重なり合うことが望ましい。ただし「完全に重なり合う」ことはない。

 

「想像は、現実をを越えることはない」ないし「想像は現実に現れる局面の要素を把握しきれない」となる。

 

しかし、何故そうなるのか?

 

理由はおそらく、"想像"がかなりの部分、何手かワンセットの"手筋"の組み合わせによってできているからだろうと思う。

想像された流れが"意味"をもってしまっているために、現実でありうるすべての出来事の中から、意味に沿わない流れが思い描かれにくくなっているということなのだろうと思う。

 

しかし、現実の姿を見れば、それまでの想像の流れの意味と切り離して考えることができる。"意味"に縛られない分、現実に現れた局面の方が要素が複雑であり、豊かだと映るのだ。