水路

土上に、水が流れて、やがて水路ができる。その水路は、水が自らの力と意志で築いたものではない。水はひたすら土の凹凸や硬軟の影響を受けつつ、可能な行く先に導かれて流れた。しかしだからといって、土が土の力と意志で水路を築いたわけでもない。土は水の浸食を受け、なすすべなく水路として抉られ、削り取られた。

水路は水によってでもなく、土によってでもなく、両者を統合する第三項的な意志と力によって作られたというわけでもなく、水と土との関係によって作られた。いわば水の都合と土の都合の折衝結果が、その水路だ。

「水路」は平井靖史の「世界は時間でできている」で、生物と環境の相互作用によって運動記憶が獲得され、やがて各生物がそれぞれの知覚システム=知覚空間=眼を獲得する仮定を説明するときに出てきたキーワードである。

ところで、とりとめなき要素が、次第にある秩序を形成し自己を区画し、それを保全するかのような、いわば創発、自己組織化において、その過程において、要素Aが求めているBと、要素Bが求めているA。お互いがお互いの情報を得なければ、目的に向かうための演算は、その先に進めない、その両者を「デッドロック・ペア」と呼ぶとする。これは西川アサキ「魂と体、脳」からの話。

感覚Aと感覚Bが「デッドロック・ペア」として相互干渉し、知覚作用が成立したりしなかったりする。その、無数に組み合う両者を片っ端から総当たり的に計算する仕組みが、脳にはあるのだとしたら、それがつまり、ディープラーニング的な解析の方法でもあり、あるいは、水路が築かれる過程を計算する方法でもあるだろうか。

それにしても、その相互干渉の結果が上手くいったとき、その状態を一時キャッシュとしてキープし、効率化を計って他に使いまわすのが小脳の働きかもしれないという説を読むとき、それはそうだとして、しかし相互のやり取りが成立したことはなぜ「上手くいった」ことになるのか?その判断根拠は、どこに担保されているのか?は気になる。「こうあれば良い」のサンプルはどこにあるのか?と思う。