制度

先のことを思い浮かべないでいるのは難しい。想像しない人間などいない。しかし私の想像はいつも、自分勝手で自分に都合が良くて思慮の足りないしょうもないものばかりだ。自分の視界からしか見ようとしないし、見えないから当然そうなる。そしていつも自分の想像のつまらなさに後で気づいて失望する、そればかり繰り返している。しかし浅墓な自分に失望するだけだけで、現実に失望するわけではない。やって来る現実はいつも、豊かで多様で解釈の余地にあふれていて、笑いも涙も怒りもあきらめも一緒くたになっていて、それがもっと全然別の色合いと手触りをもってやってくる。現実がやって来たあとには、先の想像など跡形も残ってないし影も形も無い。だから、基本的には現実主義でなければいけない。その場に横着に座り込んだまま想像するのではなく、常に現実を呼び込むような心の状態を保てるか。

 

たとえば「小早川家の秋」の未亡人を演じる原節子が、「このまま、一人で生きていく方法が、あるような気がして、それをやってみたいの。」と言う時、これから一人の女性が、近代の自立した人間、一人で生きていくことができる人間に変わろうとする瞬間をたった今見たような気がして感動するのだが、橋本治はこう言う。

 

人間というものは、下手をすると「自分は一人でもなんでもやれる」とか「なんとかやれる」と考えたがる生き物である。それを「自分でやる」と思う人と、「他人にやらせる」で分かれはするけれども、「自分のすることなんだからなんでも思い通りになる」と思う心の前に立ちはだかるのは、思い通りにならない「他人」という存在である。普通の他人なら「あっちが間違っている」と断定しきれてもしまうが、恋愛の相手になった他人は、その根本に「相手が好き」という感情があるから、否定しようとしても否定しきれない。恋愛というものは、「なんでも、一人でやれる」という人間の世界と対立して、その修正を迫るようなものだから、「自立」というような近代的な考えと衝突する運命にある

恋愛というものは、そう思い込まざるを得ない人にとっては、「相手の前に膝を屈する行為」である。しかし、そう考える人は、実のところ、「自分の恋愛感情に屈する」ということがいやなのである。そんなことは二、三十年前に始まったことではなくて、千年も前からそうなのである。

 

だから恋愛とは近代型システムでは解決できない問題なのだということ。出会って、付き合って、セックスして、結婚して、というのは、恋愛ではなくて制度で、ほとんどの近代人は恋愛を必要としないし一生恋愛せずに制度に従うだけなので、それで大体OKなのだが、もし原節子があのあとで恋愛するとしたら、それはまあなんというか「・・・それは台無しですなあ」という気分にもなるし、それこそ近松物語のように地獄へ一直線というのは極端にしても、橋本治が恋愛に必要だとする口実でありドラマであり陶酔の能力をいうのを、誰もが充分に有するわけではもちろんない。原節子がそんな恋愛を生きることができるとは思えない。近代というのはほとんどの人にとって、息を潜めて生きるというやり方がもっとも無難と教えるような制度で、でもそこから零れ落ちる人々にとって、そんなのは冗談じゃない、と言いたくなるような制度でもある。