「羽生 21世紀の将棋」 保坂和志


羽生 21世紀の将棋


本書は、ほとんど絵画制作の実際的なマニュアルとしても使えると思う。たしかに将棋について語られていることを、そのまま絵画にあてはめるのは、将棋を安易に人生になぞらえる事と大差の無い、つまらない事である可能性もある。しかし、下記に引用した箇所を見てもらえれば、それが相当具体的で、「異なるジャンルがイメージレベルで共有される」とか「芸の本質は何事もひとつですなあ」みたいな話とは別である事が判ると思う。

寄せにおける最善手というのは、対極者が考えるものではなくて見つけ出すものなのだ。それは人間の主体性に任された自由な手順なのではなくて、局面に隠されている(=既にある)手順なのだ。

羽生が言おうとしてるのは、将棋と音楽はどちらも固有の法則を持ち、それに乗って動きはじめたら、個人の「こうしたい」「こうしたくない」という意図を越える、というその一点だ。

羽生の関心は、どう指せば「私」がよくなるかではなくて、この局面で両者が最善をつくすとどうなるかということにある。

悪いと自覚していても最善の手順を指す事が、すなわち将棋で勝つことなのだ。

2400メートルの競馬で、逃げ馬が2300メートルまで先頭を走っていても、最後に後から来た馬に差されてしまえば、逃げた馬を「2400分の2300は勝っていた」とは言わない。形勢判断とは、たんに逃げ馬が先頭を入っている様子を示しているだけのことなのかもしれない。

将棋とは駒の損得という量の計算、駒の動きをいう盤上の面積の支配の計算、玉の堅さに対する速度の計算、・・・・・・という性質の異なる計算が盤上で錯綜するゲームなのだ。これらの性質の異なる要素を、明快に、誰もが納得するように、客観的に、評価する方法はない。
それはたとえば、絵画を線・色・構図・題材・・・・・・etcの要素に分けて、点数制にしてみても何の意味もないことに似ている。
形勢は、羽生も含めて全ての棋士が、経験とカンで(経験の総体をカンで補って)判断する以外に方法がない。

羽生にとって、重要なのはまず、両者が間違えずに最善の手順を尽くすことだ。それゆえ、両者の読みの集合はほぼ完全に重なり合うことが望ましい。(中略)ただし、「完全に重なり合う」のではない。「ほぼ完全に重なり合う」のだ。両者の読みが完全に重なり合ってしまったら、もう、将棋を指す意味がなくなってしまう。

「読みの中に現れた手順は、現実の局面を前にしたときに考える手順を越えることはない」ないし「読みは現実に現れる局面の要素を把握しきれない」となる。
しかし、何故そうなるのか?(中略)理由はおそらく、"読み"がかなりの部分、何手かワンセットの"手筋"の組み合わせによってできているからだろうと思う。(中略)読みによる指し手の流れが"意味"をもってしまっているために、局面でありうるすべての指し手の中から、意味に沿わない差し手が思い描かれにくくなっているということなのだろうと思う。

しかし、現実にその局面にきて、盤上に駒が配置された姿を見れば、それまでの読みの流れの意味と切り離して考えることができる。"意味"に縛られない分、現実に現れた局面の方が要素が複雑であり、豊かだと映るのだ。