幻化

旅行先で酒や食事をするなら、現地の店に行って現地の人の話を聞いたりできれば良いとか、そういう場面の出てくる小説を読むと思うのだが、でもよく考えてみるとそんなこと実際にはあまり無いことで、現地の店にいきなり行ったからって、すぐに他客や店の人との対話がはじまるとはかぎらない。小説のなかで、主人公が見知らぬ土地を、あるいは数十年ぶりに訪れた土地を彷徨いつつ何ごとかを考えていながら、そこで偶然に出会う他人は、それが物語であるがゆえに、主人公にとってじつに都合の良い案内役だったり、話相手だったり、ときにはふいに関係をもつ女だったりする。そんな適度な間合いの、適度に謎めいた関係性ばかりが出てきて、ちょうどいい距離感に守られて、いい感じの孤独をまとったままの主人公は、ますます自分なりの考え、自分なりの病気、自分なりの思い込みへと深く沈んでいくことができる。病院を抜け出した主人公は、かつての知り合いが死んだ場所へ戻ってくる。黒い潤滑油を漏らしながら飛行する機中で偶然知り合ったセールスマンと同行し、たまたま出会った女と関係をもち、宿屋の夫婦と話をして、部屋で不思議な隠し部屋を発見する。まだ主人公がこの場所へ戻ってきた真の理由も目的も不明なままだ。主人公が何に追われているような気がするのか、いやそれは錯覚なのか、そう自覚しているのか、逃避したいこと、認めたくない何かがあるのか、今はそれらの何に沿った行動なのか、謎が膨らみながら、しだいに物語としての濃さが深まりムンムンとたちこめる、梅崎春夫「幻化」はそんな作品で、ハードボイルドタッチで堂々とスリル&サスペンスに割り切った感じがあり、そういうものとしてじつに楽しく読んでいる。