雅歌

セルジオ・レオーネの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」で、主人公のデニーロがディナーの後でかつての恋人(?)に聖書の雅歌を読むシーンがある。引かれたのは第一章の後半。雅歌はこちらに口語訳がある。

https://ja.wikisource.org/wiki/%E9%9B%85%E6%AD%8C(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)

それはかつて若い頃に、相手がこの自分に読み聞かせてくれた箇所で、若き日の二人はそのあとに、接吻したのだった。しかしそれを何十年後かにむし返した相手に対して、エリザベス・マクガヴァンは別れを切り出す。

録画一覧にある濱口竜介「PASSION」のラスト近くの箇所を妻がサーチして、なぜかそこだけ再見していたのを、帰宅した自分も観ていて、現恋人からすでに愛されてないかもしれない彼女と、その彼女を今までずっと好きだったけどそのことは黙ってた男とが、たまたま二人居合わせた夜明けの工業地帯の駐車場みたいなだだっ広い場所で、男からしたら、もしかしてその彼女を自分のものにできるかもしれないという予感というか根拠ないけどほぼ確信みたいなのが男にはあって、そのときの男が女に言うセリフが、相手の身体の部分、部分、部分を、やたらと褒めたたえる、まさに雅歌形式になっていたのが、妙に印象に残った。で、女もまんざらではなさそうだし、いい感じだし、ぎゅっとハグしてキスして、完結じゃん、おめでとう!みたいなところまでくるのだ。

魅了されている相手に、もう俺の気持ちを開放してしまっていい!と思った時に、「雅歌」的な言葉が出てくる。すなわち相手を"対象"として、その部分部分が、一々美しい、それらの一々に私は魅了されていると、それを他ならぬ相手に直接伝えるという、そういう短絡が生まれる。もっとも相手に近づきたいときに、その相手をあえて消してしまって、部分としてとらえたくなる。俺はこうだったんだとわけのわからない虚空に向かって放つばかりになる。

で、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」でも「PASSION」でも、男は女に、出来事のまさにその直後、フラれることになるのだった。

(これを書くために"エリザベス・マクガヴァン"を検索したら、最近の画像とかが出てきて、今でもすごくキレイなので想定外の事態にやや慄いている…)