食事

昨日の夕食はちょっと天ぷらして、蕎麦を食べて…というプランを立てたのだが、結局天ぷらをいくらも食べないうちに満腹してしまってあっという間に食事終了、残った具と蕎麦はそのまま今日の夕食まで持ち越しとなって、今日も天ぷら、そして蕎麦、ゴールまで無事到達、完食した。一度の食事量、一食あたりの適量というものをあいかわらず学ばないのは、どうしたものかと思うが、まあ仕方がない。それに天ぷらというやつは、自分で揚げると、たいして上手くいってないとしても、少なくとも自分にはとても美味しく感じられて満足感が高く、後片付けの尋常じゃない大変さを差し引いたとしても、たまには賞味したい楽しい食事になる。ことに秋はそう、というか、何を食べるにせよ飲むにせよ、結局自宅で作って食べるのが大体一番美味しいのではないかと最近思いつつある。今年は冬のはじめに旅行を計画しており、ちょっと今回、属する組織からそれなりの補助をいただいたものですからその分豪勢なプランを、遂行すべき案件としてなかば無理矢理作成中なのだが、それが果たして満足できる旅行になるのか否かを現時点でやや疑う心もある。やっぱりそんな絵に描いたような単純な豪華プランというのは、もうこの人生において最初で最後と考えた方が良くはないかと。どこへ行こうが何があろうが、この世界に期待できることなんか別に何もないといいかげん認識すべきではないか、それをきちんとわかることが、すなわち一日の夕食の食材を適量買うことにもつながるんじゃないかしら、よくわからないけれど。梅崎春夫は「幻化」において渋くドライでありつつも簡略で軽快な話のテンポの良さがまるで筒井康隆作品の男性主人公による物語展開のようでもあり、そうかと思うとなぜか突然カフカの作品を思い浮べたくなる瞬間さえあるのだが、そんな物語において「宿屋の飯を食うほど馬鹿げたことはない」などというセリフが出てきて、うわ、やっぱりそうだよね…と脈絡なくつい納得してしまったりもする。で、さらに今日の話はいっさいにまるで脈絡ないのだが、松家仁之という作家の「沈むフランシス」という小説を知っていますか?と聞いたとして、作家の名前くらいは知っていたけれども僕は、その本は今までまったく読んだこともなく、ふだんそれをいつか読みたい候補に入れていたわけでもない、のだが、じつに不思議なのだけれども、今日はふとキンドルでその本を検索して、お試しサンプルで公開されている部分だけを読んでみたのだ。なぜ読んだのか、その理由はほとんど無いのだ。でもなんとなく、気が向いて、読んでいたわけです。そしたらその女性主人公は、もう夫と別れたらしいのだが、離婚前の夫が、夕食時にちまちまと時間をかけて酒をとっかえひっかえしていつまでも食事を続けているような男だったらしくて、まあそれだけが理由なのかそうでもないのかわからないけど、何しろその男のさもしさと意地汚さに、女は辟易していて、最後はその男が食べているところを視界に入れないようにしていたらしい。そんな場面があって、いやいや、これってまさに俺のことではないか、俺の醜さそのものがここにあるじゃないか、この物語がその後どんな展開を見せるのかはわからないけれども、それにしてもいったいなぜ自分は、この本を唐突に読もうと思ったのか、そしてなぜ図ったかのようにそんな箇所に突き当たってしまったのか、我ながら不可解というか実に不思議な思いがした。それでああ嫌だもう俗世間をいやになった、何もかも捨てたくなった、俗物の自分を憎い、滅ぼしたい、根絶やしにしたい、そして仏に仕えたい、出家したいなんて、今まで一度も思ったことないけれども、こういう気分が肥大すると、あるいはそんな発想に至るのかしら、そういえば亡き父親は大昔、若い頃、俺はヤクザか坊主のどちらかになろうかと本気で考えたことがあると言って、それ僕は「まるで理解できない」との思いで聞いたのだった、と妻に話したら、妻が意外なことを言う。じつは私も一瞬だけ、尼寺に行こうかと思ったことがある、というより私なんかが身を寄せることのできる場所なんて、もしかして尼寺くらいしか無いかもしれないと、若い頃に少しだけ考えたことがある、と。