しらふで生きる

町田康の「しらふで生きる 大酒飲みの決断」を読み出した理由は、以前たまたま見かけたこの記事(https://toyokeizai.net/articles/-/317514)がつまんなくて、少し読んだだけで止めて、しかし町田康が長年の性癖だった飲酒をやめたというのを知ってそのことがやけに気になって、その理由を知りたいと思ったからだ。そもそもこの記事は町田康の禁酒前~以降の諸々をテーマとした新刊エッセー集の宣伝を兼ねていて、つまり僕はヨタヨタ寄ってきて罠網に掛かったカモみたいなものだと自覚はしつつ、見事に釣り針に掛かって早速その場でくだんの本を購入してしまった。

しかしそんな些細なこと一つを知りたくて本を買うとは愚かである。酒をやめる理由、それは畢竟僕が自身のうしろめたさや不安を反射させた他人に何を期待してるのか、どんな言葉を待ち望んでいるのか、それだけの話ではないか。要するに、命が惜しくなった、他人が呟くその言葉を聞きたいだけなのだ。じつは誰もがそう思ってる、それを確かめて安心したい、なんだかんだ言っても誰であろうが所詮そんなものだろうと、そう思いたいだけなのだ。さもしいことだ。恥じ入れ自分。

町田康を読むのは、二十年以上前にミュージック・マガジンに連載していたやつを、ほんの少し読んだことがあるかもしれない程度で、実質ほぼはじめてだと思う。作風というか文章のイメージはぼやっと思い浮かぶ感じで、だから禁酒した理由はこうですだなんて、そんな浅はかな期待に気安くあっさり応えてくれるような内容じゃなくても当然…とは思っていたのが。…いや、読んでみるとむしろ内容はとても気安いのだが、これ、もしかして最初から最後までずっとこの調子が続くのか…と虚を突かれた感じになり、しかも肝心の「なぜ酒をやめたのか?」についても、のらりくらりとまさに町田康的と言って良いのだろう文体で、語られたのだか語られてないのか、気付いたらうやむやにされてしまった感じである。いや、一応は書いてある。気の狂った自分と正常な自分がいて、狂ってる方が自分に酒を呑むなと言い、正常な方が呑めと言う。それで何年か前のある日、正常な方が狂った方を歩道橋から下へ突き落してしまい、狂った方はおそらく玉川通で死んでしまった、で現状は、狂っている自分が優勢のままでそれ以来酒を呑んでおらず、しかしもはや狂ってた方にその理由を問うことができないと言う。そんな話が、呑まないとどれだけつらいか、それでも呑まなくなるとその後どうなるか、みたいな別の話に逸れていって、でもどの話も微妙に焦点の合わない酩酊感で、滔々と続くその文章を追いかける気が、後半に至ると正直ほとんど失われるのだが、なぜかまだ何となく惰性的にまだ読み続けている。