正確な重さ

朝起きて、今日ってもう大晦日なのか…と思う。今日が大晦日ならば明日は元日か。なんか、早い、どうもおかしいという気になる。来年が今年以上に早く過ぎゆく予感を現時点ですでに感じまくっている。今日の次に明日というスピードの感覚がすでに早回し再生のピッチ感をまとっている。そう云えばCDプレイヤーが修理から戻ってきた。まさか年内に戻ってくるとは思わなかったので嬉しい。真夜中未明までひたすら一人音楽鑑賞会。一曲を選んで再生して、曲が終わるまでの間に、CD棚の前で吟味しつつ次に再生する曲を選ぶ。次を再生したら、また次を選ぶためにCD棚を端から端まで眺めて検討する。その終わりなき繰り返しを繰り返しているのは、この世でもっとも楽しいことの一つであろう。

保坂和志「アウトブリード」(121頁)

リトルネロについて」の後半で、突然「芸術の手段は、残念ながら政府[=捕獲装置]のものとは比較にならないが、それでも競争に耐える手段であることに変わりはないのだ」という悲観が顔を出す。そして最後は「ただ、われわれはは自分に十分に力があるのかどうか、確信がもてないのだ。われわれはシステムをもたず、複数の線と運動をもつにすぎないからである。 シューマン」で終わる。シューマンは強度や生成変化の体現者のようにして『千のプラトー』の中で繰り返し出てくる名前だが、「リトルネロについて」は『千のプラトー』全体と同じように悲観で終わる……。

文学の記述の可能性または回復と民衆の問題がどう結びつくのか僕はわからない。もしかしたら結びつかないかもしれない。「絵画で重要なのは、農民がかついでいるもの、たとえば聖具やジャガイモの袋などではなく、かついでいるものの正確な重量なのだ」というミレーの言葉は相変わらずわからない。十九世紀あたりに小説が生まれたように、そろそろ別の文学形態が必要とされている可能性は充分に考えられるが、いずれにせよ答えはない。問いがすべて答えを必要とするとは限らないと言ったのはゴダールだ。