季節の記憶

保坂和志「季節の記憶」の、ナッちゃんの娘のつぼみちゃんは、クイちゃんが「文字」を書けないことでクイちゃんをからかい、クイちゃんはそれにショックを受けるが、やがて字への興味が芽生えて、その興味が次第に大きくなっていきそうな気配を見せる。しかし父親の中野さんは、息子のクイちゃんに、今から字や読み書きをあまりおぼえてほしくないと感じる(つぼみちゃんもクイちゃんも五歳で、つぼみちゃんはすでに字をおぼえ始めている)。その年齢の子供が、文字を扱うことに喜びを見出してしまうのを、嬉しく思わない。なぜなら文字は、世界を抽象化し象徴化してしまう人間にとって最初の道具で、それを使い始めるやいなや、人間は文字を使う以前に感じていた世界に対する認識や感覚をうしない、なにもかもを文字に代替したイメージとしてしか扱えなくなるから。

すべてを言語によって感受し把握する人間という生き物が、ときとしてその言語から洩れるものに気付いたときに、その気持ち悪さをあるわかりやすさの元に押し込めて納得したくなる、それが恋愛や憎しみ、あるいは奇行とか、あるいは芸術をつくりだそうとする欲望の元になっている、のかもしれない。 

「文字とは限らないな。言語―――だな。
―――からだの隅から隅まで、心の隅から隅まで、全部言語でできてるんだな。
隅から隅まですべて言語でできているはずなのに、ところが稀にそこから洩れるものがあるんだよ。」
「それは『言葉にならない気持ち』ってやつじゃないの」
僕は言ったが、松井さんはそうでもなくてやっぱり「言葉から洩れるっていうことなんだ」と言った。
「言葉にならない気持ち」と言ってしまうと、気持ちが先にあってそれを言葉にしていくみたいなことになってしまう。みんなたいていそう思っているけど本当は逆で、気持ちよりも先に言葉がある。恋愛なんていうのはその最たるもので、人は自分の気持ちと呼べる以前の、方向や形の定まってない内的なエネルギーを"恋愛"という既成の形に整えていく。そういう風に人間は言語が先立つ動物のはずなのに
その言語から”気持ち以前の何か(傍点)“が洩れているようなことを感じることがあって、自分には十一月のこの季節がそうなんだと松井さんは言った。
「いろいろ言い方があるだろ?
『木の芽時』とか―――
風立ちぬ』とか―――」
「全然違うじゃないか」僕は笑った。
「おんなじなんだよ。
人間のからだがそれまでの季節とのあいだに、作り上げて、馴れ親しんだ体内の調整機能と、季節とのあいだでズレが生まれた瞬間を指している言葉なんだよ」
「それのどこが言語なの」僕は訊いた。
「『体内の調整機能』というものに対する自覚的でない自覚が、だよ。
犬や猫は言語がないから、人間よりずっと簡単に陽気の変化に対応してるだろ?あいつらは言語を持たなかったおかげで、状況をあるがままに受け入れられるんだよ」
「そうすることしかできないとも言えるけどね」
「そうすることしかできないんだよ」松井さんは言った。そしてつづけた。
「犬が犬のようにしかできないように、人間は人間のようにしかできない。
そしてあるとき、人間はすべてを還元しているはずの言語から洩れる。
そのズレは、人間にはものすごく居心地の悪いものだから、人間はそれを既成の形におさめようとする。
恋愛に持ち込んでみたくなったり、感傷という感情に依存して、詩でも書いてみたくなったりね―――」
松井さんは自分で言っていながら笑った。僕も笑った。
「初恋の相手に投函しない手紙を書いてみたりね―――」
「そんなことするか」と僕は言った。
「人によっては裸で町なかを走り回るような奇行をしてみたくなったり―――
するんだよ」
「で、松井さんは何をしたいの」
「俺は何もしたくないさ」松井さんは言った。
「ただ『この時期だけはどうも―――』と思うんだよ」
「恋愛もしないの」僕は訊いた。
松井さんは「そういうことをする前に、このズレを味わわなくちゃ―――」と言った。