ロバンソン

この長い物語は最後、主人公のフェルディナンが物語の序盤で偶然出会い、そのままいつまでも縁が切れぬままとなったロバンソンの死によって幕が閉じられることになる。そこで見出されたのは、死んでいくこと、今、目の前で命が尽きようとしている瞬間の崇高さだ。いや、少なくとも彼がこと切れる寸前と、そのあとで、何かが変わる。

 で僕はとまどっていた。レオンを前に、なんとか同情を示そうと、これほどぐあいの悪い思いは、初めてだった。どうしてもだめだった……奴には僕が目にはいらないらしかった……やきもきしていた……死んで行くために、安心して死んで行く支えに、きっと、僕よりもはるかに偉大な、もう一人のフェルディナンをさがし求めていたのにちがいない。世界がひょっとして進歩したのではないか、確かめたがっていた。頭の中で、いじらしく、決算表を作っていたのだ……自分の一生のあいだに、彼らが、人間どもが、すこしは、よいほうに変わったのではないか、連中に対して自分がうっかり公平を欠きはしなかったか……だが、彼のそばには、僕しか、まぎれもないこの僕しか、僕だけしかいなかった、人間を自分一個のしがない生命以上に高めるもの、すなわち他人の生命への愛、そんなものとはおよそ縁もゆかりもない正真正銘のフェルディナンしか。そんなものは、僕は持ち合わせてはいなかった、それとも、あんまりわずかで見せびらかすほどのこともなかったのだ。僕は死神に太刀打ちできるほど偉大な人間ではなかった。はるかにちっぽけな人間だった。僕には偉大な人間的理念が欠けていた。こいつに対してよりも、瀕死の犬のほうに、いっそう同情を感じただろうと思えるほどだ、だって犬は意地悪じゃあない、ところがこいつときては、レオンときては、なんてったって意地悪でないとは言いきれないのだ。僕もまた意地悪だった、人間はみんな意地悪だ……それ以外のものは、人生の途中でどっかへ消えちまったんだ、死にぎわの人間のそばでまだ使い物になる作り顔、それすら僕はなくしてしまっていた、僕はまさしく途中ですべてをなくしてしまっていたのだ、くたばるために必要なものを何ひとつ、悪意以外は何ひとつ、見つけ出せなかった。僕の感情、そんなものは休暇にしか出かけない家みたいなものだ。満足に住めたものじゃない。それに断末魔の人間は欲ばりだ。苦しむだけじゃ足りないんだ。くたばりながら同時に楽しまなくちゃおさまらない、最後のしゃっくりをしながら、動脈いっぱいに尿素をためながら、生命のどん底で、まだ楽しみたいんだ。
 ぞんぶんに楽しめないといって、往生ぎわまで、めそめそ泣くのだ……要求し……文句をつける。生から死への引っ越しをあせる、不幸の喜劇。
 パラピーヌモルヒネの注射を打ってやると彼はすこし意識を取り戻した。こんどの出来事についてあれこれ語りさえした。「こうなったほうがいいのさ……」とも言った、それから「思ったほど苦しくないもんだな……」パラピーヌが正確にどの場所が痛むかたずねたとき、もう奴はいくらかあの世へ行ってしまっていることがわかった、がそれでもまだ僕たちに何か言おうとつとめていた……力も、手段も欠けていた。泣き、息を詰まらせ、かと思うとだしぬけに笑い出すのだった。並みの病人とはちがっていた、どう扱えばいいのかわからなかった。
 いまでは奴の方が僕らを励ましてるみたいだった。生き残る楽しみを僕らのためにさがし求めているみたいだった。僕らの手を握りしめた。二人の手を片方ずつ。僕は接吻した。こんな場合に自分をあざむかずにできることといえばもうこれくらいだ。僕らは待った。彼はもう何も言わなかった。しばらくたって、たぶん一時間とはたたなかっただろう、出血がついに運命に決着をつけた、こんどは、内側からの、あふれるような、多量の出血が。それが彼を運び去った。
 彼の心臓はますまず早く鼓動しはじめた。ついで非常な早さで。それは、彼の心臓は、血液を追っかけていた、涸れ尽くし、先のほうで、いまではほんのちょっぴり、動脈の末端で、指先で、震えている血液を。土気色が襟もとから立ちのぼり、顔全体にひろがった。息を詰まらせ、彼はこと切れた。飛び立つように一挙に立ち去った、両方の腕で、僕たちにすがりつきながら。
 それから彼は、またすぐ、そこに、僕たちの前に、もどって来た、体をひきつらせ、すでに死者の重みをすっかり身につけだしていた。
 僕らは立ち上がり、彼の手から身をほどいた。それは、彼の手は、すっかり硬直して、電灯の下で青黄色く突っ立って、宙にとどまっていた。
 その部屋の中でロバンソンはいまでは異邦人のように、恐ろしい国からやって来た、だれももう話しかける気になれない異邦人のように見えた。

 

フェルディナンは事後的に強い感銘を受けている。あのロバンソンに対して、これまで感じたことのないような崇高さをおぼえる。

 

はるか、かなたに、海が見えた。だが、それについて、海について、いまではもうなんの空想も働かなかった。なすべきことはほかにあったからだ。自分の生活に二度と直面せぬために、姿をくらます努力を試みてみたが、無駄だった、いたるところでたやすくそいつに出くわすのだ。自分に戻るのだ。僕の放浪、そいつはもうおしまいだった。ほかの奴らの番だ!……世界はもう一度閉ざされてしまったのだ!果てまで来ちまったのだ、僕たちは!縁日といっしょだ!……悲哀をいだくだけでは不十分だ、もう一度音楽を始め、さらに悲哀を求めて出かけるだけの元気がなければだめだ……だけどほかの連中の番だ!……要するに、それは青春の回復を願う気持ちの表われだ……僕に気兼ねは無用だ……第一、僕にはもうそれ以上耐えしのぶ覚悟もなかった!……そのくせ僕は人生でロバンソンほど遠くまで行きついてもいなかったのだ!……結局成功しなかったのだ。奴がいためつけられる目的で身につけたような、頑としてゆるがぬ一つの思想を、僕はついに物にすることはできなかったのだ。僕のでっかい頭よりもまだでっかい思想、その中に詰まった恐怖全体よりもでっかい思想、みごとな、堂々たる、おまけに死んで行くのにすこぶる重宝な思想……つまり、この世のなにものよりも強力な思想を自分につくりあげるためには、僕には生命がいくつあればたりるのだろう?……答えられなかった!失敗だった!僕の思想ときては、隙間だらけの頭の中でぐらぐらしていた。そいつは忌わしい恐ろしい世界の真っ只中で、生涯震え、またたきつづける、みすぼらしい、ちっぽけな蝋燭みたいだった……
 二十年前よりはたぶんいくらかはましだろう、進歩の兆を示してないとは言えなかった、がそれにしたところで、ロバンソンみたいに、ただ一つの思想、そのかわり完全に死よりも強い堂々たる思想を、僕が自分の頭いっぱいに詰め込む日が、そして僕の思想だけでいたるところに、喜びと、自信と、勇気をまきちらす日が訪れるのは、まず望むべくもないことだった。颯爽たる英雄にはなれっこないのだ。