溝口健二「近松物語」の登場人物の二人は、大変な恋愛モードの只中にいるのだが、一緒にいるときに必ずしも幸福そうではなくて、むしろ今の事態に恐れ慄いてその不安に耐えきれなくて、とくに男の方はせめて相手だけでも助けたいと思って、突如として一人で逃走をこころみて果たせず泥にまれてまた性懲りも無く二人抱き合うみたいなことをくりかえすばかりで、外部的な力によって引き離されることには絶対に抵抗するしどこまでも逃げるし、そこまで行くなら心中しかないでしょというレベルはお話の前半くらいで軽く越えてしまって、死ぬことさえ拒否、地獄だろうが何だろうがどこまでも行くのみの体制で進みまくるのだが、しかしくりかえすが二人一緒にいるときが最上の幸福ではない。それはむしろ興ざめで只の「日常的」な時間でしかない。目の前のこの相手はなんと凡庸でどこにでもいる只の男だろう、こいつはどれだけありふれたただの女に過ぎないのか、お互いはきっと相手のことをそう思っている。それをまざまざと感じる。馬鹿馬鹿しい、ムダだ、滑稽だとさえ思う。にもかかわらず、相手がいないときには、その相手のことばかりで頭がいっぱいになる。昼も夜も、寝ても覚めてもそれだけになる。会わない時間が信じられない。世界のすべてを喪ってもかまわないから、あの人に会いたいと思う(「天気の子」にもしかしたら含まれていたのかもしれない、そうであってほしかった狂気)。その病気に罹っている。恋愛は端的に病気であり、治癒の対象ではあるのだが、それを発病することを生きるよろこびのように感じる部分がどこか人間のなかにあるのはなぜなのか。橋本治が「恋愛論」で書いていたように、恋愛とはたしかに情報量の戦争的側面はあり、私にないものをあなたがもっているから、私はそれに惹かれるのだという指摘は正しすぎるのだとは思うが、しかしこの論旨は恋愛の病気性をきちんと説明できてないような気もする。言語化できるレベルで突き詰められた恋愛論の完璧に近いものが橋本治の同著作だと思うが、病気はそのようなものとは違う。
夜、東京駅で先に飲んでいた連中と合流する。そのあと三軒行って、最後別れてから地元のバーで一人でまた飲む。たしかテレビモニターに「ローマの休日」がやっていて、誰かとなんか喋っていたのはおぼえている。それで泥酔。未明に帰宅。就寝。こんなことばかりやっていて、本当にいいんでしょうか。よくない。それから、もう大変だったんです。財布、また失くしたんです。妻が激怒してます。拾った人はすぐに連絡してください。よろしくおねがいします。