ところてん

スーパーで買い物していると、ところてんがふつうに売っているのを見かけるし、たまには買う。それにしても、ところてんがいつも、これほどちゃんと入手しやすい状態で食品売り場に存在しているのは不思議な気がする。ところてんを好きな人が、この世にはそれなりの数いるのだろうか。ちなみに、僕はところてんを好きで、ところてんという食品を、それなりにいつも気にかけているというか、ことさら目立つことはないけど、どんなときでもいてくれなくては困る、まさに不可欠な存在のように感じてはいる。しかし、それにしても主張がないし、目立つ話題もなく、これほど地味なイメージの食品もあまりないのではとの思いもある。たとえば夕食のどのタイミングで出てくるべきなのか即座に断言するのは難しい。前菜的な位置づけなのか、箸休めなのか、デザート同様なのか、どこに置いてもしっくり来ない。酒のアテとしても、なかなか微妙だし、そもそもこれを食べたいか?みたいな身も蓋もない気持ちを呼び起こしもする。もっとも納得を呼び起こしやすいとろこてんの存在価値としては、低カロリーでダイエットに最適、という話にはなるのだろう。それはそれでいいけど、そういう効能とか薬品のように思ってほしくないというのもある。ところてんは、ところてんとして、単独的に美味い。やはりところてんにはいてもらわなくては困る。そう思うだけの何かがところてんにはある。しかしそれを言葉にあらわすのは難しい。

市販のパック詰めのところてん、僕はあれの三杯酢のやつばかりを買う。黒蜜とかのは、一度も買ったことがないので、どんな味わいなのかもまるで知らない。三杯酢一択である。しかも、小さなビニール袋に入ってる三杯酢の、ほんの数滴を水切りしたところてんの上の一部が染まるくらいに振りかけるだけで、残りの大半は捨ててしまう。それで充分なのだ。あとは辛子だ。これはふんだんに使う。がっつりと入れてかき混ぜて、全体がにぶい黄土色に近づくくらいまで混入する。不用意に吸い込むと、むせて一分以上げほげほと咳込むことになるほどの量だ。

夕食後に、軽く飲んだあとに、ふと思い立ってずるずると食うところてんは、じつに美味くてさっぱりする。日常的に、ことあるごとに食すと言ってよい。結局は自分にとっての定常食のひとつかもしれない。ところてんと云えば、そのはじめての出会いをいまだに憶えている。子供の頃、おそらく夏休みに父親の実家へ帰省中だった折、港町を親子二人でぷらぷらと歩いていた。僕はおそらくまだ小学四五年生だったと思う。通りの向こうからがらがらと音を立ててやって来る木製の台車とすれ違った。屋台というか、その場でところてんを一杯いくらで売ってくれる行商のお婆さんである。

父親はそのときたまたま気が向いたのか、その場でところてんを二杯注文して、お椀を受け取り、一つを僕に手渡した。椀のなかにはきれいに寝そべっているところてんの束、薄口の醤油だしがかかっていて、酢を使ってないから酸味はない。僕にとっての原初的ところてんの味わいは、もともとそうなのだ。あとは刻まれたネギと、辛子が添えてあった。そして渡された箸は、一本だけだ。ところてんを箸一本で食うという風習は、ある特定地域にて継承されており、そのときもその風習下で供されたのだが、子供だった自分にとっては、何しろその食べ方の面白さがとても刺激的で、今手にしているこの食べ物を、これまでのセオリーではとらえきれないような、まったく新しい文化の下における食べ物なのだろうと、そのようなニュアンスを無意識に感じ取っていたかもしれない。

今となっては、古き良き時代の片田舎の思い出にすぎないけれども、ああいうものを立ち食いでサクっと食える世の中の方がぜったいに社会的に使い勝手は良いと思うがどうなのか。もつ焼きとか串揚げとか油のベタベタしたものもたしかに美味いけど、こんにゃくとか生牡蠣とかところてんとか、願わくばわかめとか海苔とか、野菜のおひたしとか、もっとあっさりした簡単おつまみが普及してくれると嬉しい。(まあ蕎麦屋が近いけど、もっとより簡単なのが良い。)