喫茶店の記憶

小谷野敦ツイッターで「喫茶店へ行く、というのを楽しいように感じるのはタバコを喫う場所だと思っていたからであった。」とあって、ああ、、まさにその通りだ、まさにそれだ、、と思った。もう十五年以上前にもなるけど当時、もし自分がタバコをやめたら、それにともない自分の行動志向や習性や生活のリズムの感覚全体が多大な変動にみまわれて、以降自分が自分から受けるフィードバックそのものの受容修正を余儀なくされ、これまでの経験に裏打ちされていたはずの多くのよろこびをうしなうだろうと、それを想像して強くおそれたし、しかし結果的に三十歳を過ぎてそれを受け入れたのだった。

言われてみれば、若かりし頃の自分の、喫茶店という空間に対するあこがれは、喫煙という行為とセットだった。喫煙の習慣を手放したことで、まったく意識していなかったけど必然的に、その場所へ移入されていた感情も消失したのだ。たしかにその通りだ。昔と今とで、自分にとって喫茶店という空間ほどかつてのオーラを見出すことができなくなった場所はないかもしれない。それはまだ学生とかの時代に、いまだ未知な社会の様々な場所にあこがれを抱き、年齢と経験を経つつ色々な場所に出入りするうちに次第に場慣れして、やがて大抵の場所にかつてのオーラを感じなくなった、ということとは根本的に違う、時間の推移に影響されないこの場所というスペシャルな感覚を、タバコというアイテムを手放してしまったがゆえに、その唯一にして最大の出来事ゆえに、はからずも喪失してしまったということだったのだろう。

度忘れてしまえば、なかったことと一緒になってしまうもので、それはよくわかっているつもりで、だからこそタバコの臭いを、いまだに「いい臭い」だと思う(思いたい)、そんな自分の記憶を保持しておきたいと、前から思ってはいるのだが、それでもすでに忘れてしまったことはおそらく、もう取り返しのつかないほど、たくさんあるのだろう。