志賀直哉は1883年生まれ、のちに「暗夜行路」となる「時任謙作」を書おうと試みてやがて挫折した時期が1914年、直哉が31歳のときで、それは彼が彼自身の二十代をモチーフにしようという試みであっただろうから、その作品の時代背景はつまり、ゼロ年~十年代であろう。

ただし「暗夜行路」にはいつ頃の時代を背景とした話なのか、それの手がかりになるような記述が極端に少ない。時代を示すような時事的な要素がほぼ出てこないし、そもそも主人公の時任謙作がそのときに何歳なのかも、はっきりとはわからない。そういうことがすぐにわかるような要素を、あえて挿入していない、あるいは「暗夜行路」自体が、足掛け十五年にもおよんで書き継がれたものであるがゆえに、なおさら時事性を挿入するのに適さなかったのかもしれない。

ただし後半にきて、結婚相手の親族であるN老人と主人公謙作らが食事を共にする場面で、N老人が話す「ご維新前の話」が、そのような話が老人の昔話として採用されるということ自体に「当時性」みたいなものが色濃く醸し出ている感を受ける。幕末、水戸藩天狗党員の武田耕雲斎らが敦賀で捕らえられて、魚を塩漬けする蔵の中に幽閉されて、皮膚病を発病させながら冬の寒さによって一人ずつ死んでいったという相当に凄惨な話を、その老人は自分の過去に起きた事件の思い出として話している。それにしてもその席でなぜそんな話題を…と思うけど、むしろそういうものかもしれない、これぞ昔だな、と思う。