蛇・チェーホフ

散歩の途中で、蛇を見た。いつ以来だろうか。あの蛇を見たら、そのことはこのブログにも必ず書いているはずだ。しかし検索するのも面倒なのでぼんやりとした記憶だけで話を進めるが、前に見たのはおそらく五年前くらい。たしか鎌倉の美術館の池を泳いでいた。その前はさらに五年前くらいで、あれは浜離宮公園の水辺だった。その前になるとそのさらに数年前で、あれは仕事で訪れた埼玉県の奥地にある客先の工場のきれいに刈り込まれた芝生の上に、まるで鮮やかな太い絵の具がチューブから飛び出したかのようにウネウネと元気よく這っていた。だいたい、五年に一度くらいの間隔で再会する。それにしても、きょうは久しぶりだった。まさか今日会うとは思ってなかったので、すごく意外だった。しかし相変わらず元気そうで良かった。

 

チェーホフの「脱走者」の、文章一つ一つのイメージ喚起力のすごさ。母親と一緒に病院に来たパーシカは、夜明け前についた建物の玄関前で二時間も待ち、その後も待合室で長いこと待たされる。その後受診の申し込みをして、お母さんが返事するのを聞いて、そこで主人公は、つまり読者はここではじめて、自分の正式な名前や、年齢や、読み書きできないことや、いつから具合が悪いのかを知る。このはじまりかた。

 

その後の医者の苛つきと、お母さんの態度の物悲しさ、医者の手つきのガサツさ、しかしどこか信頼できる感じ、母親の叱咤する言い方・・・

 

今の我々が、あまりにも映画などの映像を見過ぎているからかもしれないが、ここに書かれているあらゆる情景のすべてに、相当細かく正確な視覚的イメージが思い浮かんでしまうのだ。外套を脱ごうとする母親の様子や、医者の表情、汚れ水の溜まった洗面器…。これは何事かと訝しく感じるほど、この短い一連の流れは、映像的に感じられる。まるで、既存の映像を文字起こししたかのように感じられる。