緑の光線

エリック・ロメール緑の光線」(1986年)を観る(VHS録画)。主人公のデルフィーヌは、旅行の約束を友人にキャンセルされてしまって、夏休みなのに二週間をたった一人で過ごさなければいけない。手持無沙汰で、退屈で、気詰まりで、でもその状況を回避しようと自ら動く気持ちもなく、前向きに打開しようという心持ちもなく、その居心地の悪さの中に、ただひたすらたたずんでいる。今ここにこうしている私、不幸で可哀そうな私として、そのままでいる。友達でもない人々の輪に入っていくのはしんどい。楽しくないやり取りを無理して続けるのも嫌だ。一人はつまらないけど、つまらない誰かに合わせるよりは一人の方がマシ。でもやっぱり一人はつまらない。だからせっかく来たのに、たったの一日で荷物をまとめて、またパリへ戻って、また再び別の場所へ出掛ける。そんな態度を友達から詰られると悲しくなって涙が出る。反論もする。そして、彼女はやはり元のままだ。

夏のバカンス中の海辺はたくさんの人々がいて、老若男女がひしめき合っていて、そんな中に彼女は一人、水着で波打ち際を歩き、周囲の人々と同じように押し寄せる波へ身体を投げ出して、ひとしきり身体を海水に洗い、やがてふたたび浜辺に戻って寝そべる。別にやりたくもないことを、とりあえず周囲の行動に合わせて真似している幼い子供のようで、その表情は曇っていて、楽しそうでなくて緩慢で、寄る辺なく、孤独で、ちょっと可哀そうだ。

そんな彼女の姿を、ただそのまま観ている。彼女に感情移入することはない。不満気な表情で、とてもつまらなそうなある女性の様子を、じっと見ているだけだ。あと、寄せては返す波のようにいつまでも終わらない夏のざわめきの音を、延々と聴いているだけだ。終盤、彼女はちょっとがんばった。ちょっと偉かった。