胡瓜

休日の朝に、妻がサンドイッチを作ってくれて、起きるとすでにたまごサンドと胡瓜・ハムサンドが出来ていて、あれはありがたかった。サンドイッチはおいしい。お弁当がおいしいのと似ているように思う。いくつかの食材を一か所にぎゅっと詰め込んであることのおいしさというものがある。シンプルな具材の素朴なものほどおいしいと思う。

胡瓜という野菜はおいしい。食べても意味ないようなものほどおいしい。

小説の登場人物で、最初は厄介で近寄りがたいけど、最後の方で、なんかもっともらしくいいこと言いそうなやつ、そんなのはダメだ。いちばん良くない。嫌いなやつを許すというか、嫌いなやつを嫌いなままに、その存在を書き出してやること。はじめからまるでズレてて、共感ポイントなしの、生きてる位相の違うやつをそのままあらわしてやること。相当困難なこと。それはもはや書く力というよりも人としての力だろう。

まあ、すごい人は根拠なく全部を信じている、そのことがすごいのだ。自分を投げ出してしまえる根拠なき自信、怖いもの知らずな、バカなところが必ずある。バカなことって、すごいことなのだ。

人に何かを教えるとき、まあ一度ではわからないだろうなあとか、時間を経てしかクリアできないんだろうなあとか、思ったり、ときにはそう口にしたりすることもある。マニュアライズと人は簡単に口にするし、それはそれで大事だけど、これそのものを丸投げしたいのだと思ってるとき、あなたの想定では全然足りないのよ、スコープが違ってるのよと思うこともある。でもそれを今この条件下で正確には教えられない。あなたと私を含むこの枠自体のことだから。

だから、時間と意識で少しずつとしか、今は言えない、ごめん、みたいなことになる。

昔なら、十年以上前なら、まだ牧歌的だったの。自分ももっと単純だった。いや、そうか、ごめん、たぶん、それをあなたにではなく自分に言いたくて、そう思って今喋ってる気がするわ。

前にもそういうことあったの。人にモノを教えるとき、自分がわかりたいことを必死に喋って、ああこれはきっと、僕が自分自身で確かめたかったことだった、それをまるで、相手が自分であるかのように喋ってたって、そう思ったの。あれは悪かった、でもあれでしか表現できなかったと思うの。それで、相手にも気持ちは伝わったかもしれないの。気持ちだけでも伝われば、上々だって考えかたもある。そういうの、最悪だという人もいますけどね。僕は必ずしもそうは思わないけど、っていうか、最悪って、かならずしも最悪じゃなくない?

栄養のないモノがおいしい。