大掃除というほどでもないが、ふだんあまり見向きもしない棚の奥など、色々整理していたら、昔の写真やら郵便物やらがいっぱい出てきて、その手のものは一か所にまとめてあると思っていたのだが、ふいにこうして未発表テイクみたいなのが思いがけずあらわれると、失われていた過去の一部がとつぜん復旧したかのような錯覚におそわれる。ただし取り戻したとしてもさほど価値ある過去ではなくて、どうせまた忘れるだろうと思うような程度のものだ。むしろその当時と現在地との時間的隔たり、挟み込まれた年月の長さに対する感慨の方が大きい。

郵便物というのは、捨てられるものはとっとと捨てるのだが、捨てられないものもそれなりにある。たとえば私信とか、個人宛に送ってもらったものとかは、それがすでに用途を終えた内容だったしても、捨てるにはしのびないので保管してある。年賀状なども、来たものを毎年捨ててしまうとか、あるいは数年に一度で処分してしまう「ツワモノ」もいるのだろうが、僕はそれが出来ず、どこかにはしまい込み、しかしそれらが再び見返されることはほぼ無いこともよくわかっている。

塵も積もればの言葉通り、そんなことで何十年も経過すれば、やがて家の中が郵便物だの封書だので溢れかえることになるのは目に見えている。というか、それこそは端的に、老人の住まいだなと思う。亡き父親が一人住んでいた部屋のそこかしこにうず高く積み上がっていた郵便物の山を思い出す。あれは整理整頓が出来ないとかそういうレベルではなくて、将来に比して過ぎ去った過去の時間的分量が大幅に増えてしまった人間の住空間が、避けようもなく陥る事態なのだなと、自分もようやく実をもって実感しはじめた。いや、もちろん断捨離とか何とか称して、いさぎよく捨てていく、それによって絶えず自分を新たな方向へ刷新させていく心構えが大事だというのはわかるが、ことがそう単純でないのは、老人にとっての新たな方向、自身の輪郭をより見通しよくはっきりとさせてくれそうなその方向が、そのまま過去への遡行だったりもするのだ。すべてを断捨離した翌朝になってすっきりした部屋を見回しても、必ずしも何かが変わるわけではなく、むしろ本質的問題はそこにないことがはっきりと露呈し、しかも結局はそれ以上を捨てることが、自分自身を捨てることが出来ないとよくわかっているから、いまここに留まるのだ。その停留は、書斎に閉じこもろうとする若者やモラトリアム的な気分とは似て非なるものだ。