ゲンロン戦記

東浩紀「ゲンロン戦記」を読んだ。会社組織における経理・事務。すなわち間接業務の重要性とリスク…。こういう話を「そんなのは当たり前だ」「稼げばいいのだ」などと簡単に言い切れる人は少ないはずで、少なくとも零細・中小企業における重要情報がその一点に集まることの意味がわかっている人であればあるほど、無言で何度も頷く以外の反応ができない話だろうと思う。また会社とは自分が自分の仕事をする場でもあるが、他人に委託して結果だけを受け取る場でもある。経営者に限らずとも、依頼した相手から受け取った成果物に経緯はどうであれ最後は自分が責任をもち品質を保証しなければいけないことは多々ある。その根本にある困難さが、ここにはこれでもかとばかりに描かれていて、まあ、いわば修羅場のような状況に立ち会っているような感じで思わずため息が出る。

元々「仲間」=「ぼくみたいなやつ」をもとめていた、そんな出会いの願望をかかえつつはじめた事業だったが、紆余曲折を経てその欲望が間違いだったと気付く、むしろ「ぼくとは違うやつ」が集まることで、かえって組織は上手く回っていくのだと。その認識へ至る過程もまさに理窟でなく身をもっておぼえたことの凄みがある。孤独の自覚というか、中年へと至る悲哀、諦念も含んだような苦みを含んだ認識に、そうなんだよな…といったかすかな共感をおぼえるところもある。

言説が偶然思わぬところへ届くことを「誤配」と呼ぶならば、「誤配」が常に起こるそんな場を作り出すことが、ゲンロンという会社の理念であり目的であるのだろう。そのために教祖と信者の関係でもなく、敵と味方の関係でもない、ビジネスを通じて結びつく、商品と貨幣を交換する関係として人をつなげることが目指される。金を稼ぐこと自体は悪いことではない。悪いのは資本の蓄積であり、今で言えばリツイート数、ページビュー数、フォロワー数などの「スケール」を追い求めるしかない状況、無目的な数増大への志向がそれにあたる。ある意味SNSを主としたネット界は19世紀にマルクスによって批判された状況の延長線上にあるとも言えると。無料プラットホームやSNSサービスの弊害、反体制だろうが反資本主義だろうがすべてが数の論理に還元させられてしまうのが今のネット社会であるならば、そんな「スケール」の罠にはまることなく、少数で場を維持できるに望ましい課金体制を維持していくビジネスこそが、より活発な「誤配」の可能性に満ちた場をつくることになると。それは労働力、貨幣、価値の交換によって、封建社会的なこれまでのしがらみや出自性から人間を自由する、資本主義本来の可能性だった解放の希望を、現代に今一度取り戻そうとする試みとも言えるだろうか。