やっぱり24時間営業って助かる。ふだんは会社員の生活リズムで生きている自分が、たまに休みの夜に夜更かししてると、それをひしひしと感じる。コーヒー飲みたくなるとき、コンビニであれが百円で買えると思うと、実際に買いに行かなかったとしても、行けば飲めると思うだけで、ちょっと気が救われる気がする。自分でコーヒー淹れればいいのだけど、真夜中に豆を挽くと音がうるさい、あと家のコーヒーではなく外のコーヒーがいいのだ。たとえコンビニでも。ていうかそういう真夜中にコンビニで淹れたコーヒーのむと、溜息が出るほど美味しい。
ぐっと自分の世界に入り浸って、しばし仕事に没頭して、そこからひとまず抜けて、ほーっと溜息をついて、さて今日の仕事は終わりだと思って、そこから、じゃあちょっと一杯飲むか、カウンターの端でビールか強めの酒でも飲みに行くかとなったときに、そういう店がきちんと近くに開いているのだとしたら、それは幸福というものだし、そういうのがあるから、人はそこそこ都会に暮らしたいのだ。
それは何も酒場やバーでなくてもコンビニでもいい。ふと気を抜いて、ちょっとブレイクしようと思ったときに、家の近くに何かあって、そこで気晴らしできること。それまでがっつりと自分自身の中に、集中力を高めてがりがりに演算処理を繰り返していた、きりの良いところで、今日はこのへんで良しとするかと思って、テンションをスローダウンさせて、四肢の力をゆるめてふらっとおもてに出て、外のひんやりとした空気を感じて、その新鮮な冷たさを肺の奥まで吸い込んで、あとはこのままだらしなく外部とつながってしまってかまわない、そんな呆けた顔を周囲に晒すことのできる場。他所の人が行き交ってる路上、飲み屋街、コンビニ前の駐車場、真夜中の。さっきまで仕事してた人が、そこで酒を飲むあるいはコーヒーを飲んで、ふーっと弛緩しているとき、それこそが、その人と社会とのつながりの部分だ。ここで少しの間だけ呼吸させてもらって、家に戻ってベッドで眠り、明日の午後からまた自室で仕事の続きをする。だからその人にとっては、この真夜中だけがその人にとっての外部でありこの世であり社会であり娑婆で、一日のうちほんのひとときだけの、日々の現実らしさとされている場所。
ちなみに日中の勤め人が会社を出てから酒場に立ち寄るのは、それとはまたちょっと違うのだろうけど。自室で仕事してた人が真夜中に家を出て外で酒やコーヒーを飲んでるのは、固く閉ざしていた口をやや緩めた貝の呼吸している様子みたいなものだけど、日中の業務を終えた勤め人が帰りに寄り道してるのは、一日かけてだらしなく緩んでしまった貝の口をきちんと閉ざしに来た人のしぐさに近い。雑然と取り散らかってしまった自分の中のあれやこれやを、ざっくりと整理して元の位置に仕舞いなおす、もともと本来の、自分が落ちつくことのできる状態、再整理した自室のように、ここが自分の拠点と見なせる心の中の場所を整え直して、目を向けることのできる、自分に確保されているはずの自閉性をきちんと取り戻す。いつもの店でいつもの注文をして、まるで日々の作法のようにそれを飲んでから帰路につく。彼らが立ち寄る店はその儀式のためにある。
いずれにせよ、ヘミングウェイが短編「清潔で、とても明るいところ」に描いたのは、おそらくそういうこと(都会で真夜中までやってる、我々の何かを補填、救済してくれる場の必要性)でもあるだろうし、しかしあの話でカフェが担うべきものは人間の「無(ナダ)」ということになっていて、つまり近代以降の人間社会において「清潔で、とても明るい」カフェのような場所こそが、もはや神なき祈りなき近代以降の人間にとっては必要なのだと。かつて人々の救いや癒しや、あるいは緊張の緩和、弛緩の余地を与えてくれたはずの場所を代替するための役割を担う場所こそが、たとえば俺たちが働くこのカフェではないかと、あの小説の登場人物の給仕人は、自らの役割としてそのことにぼんやりと思い当たっていたのではないか、そんな気もする。
我々もそのような世界の延長に生きていて、真夜中に自らの「無(ナダ)」をのコンビニのコーヒーに溶かしているというわけだ。
(たぶん村上春樹が作品のなかで一生懸命やろうとしていることも、この「無(ナダ)」のもとに生きていくことにまつわる何かであるだろう。というかそれは今、作品にかかわるすべての人間にとってそうなのだが、「無(ナダ)」を抽象的に考えるのか、それともそれを描き方の問題にとらえ直して、人工物の模造みたいに、いわば具象画みたいにして「無(ナダ)」を扱うのか、というところで村上春樹は絵で言えば具象画家なのだと思う。)