昭和住宅

一九七一年に生まれた僕のおそらく最古の記憶が、おそらく四歳前後に通っていた保育園の校舎と校庭の景色と、麦茶が入っていた透明の瓶と、やや不機嫌そうで怖い雰囲気の保育士女性の表情、それらの断片的な情景だ。あれは一九七四年か五年あたりということになるのか。だとすればあの保育士女性が、当時仮に四十歳くらいだとするなら、あの人は少女時代に終戦を経験したことになるのか。母は一九四四年生まれなので、当時は三十歳前後ということになるのか。父と母は共に三重県生まれで、結婚してやがて僕が生まれ、ほどなくして家族三人で上京し、数年を経て埼玉県のかの地へ移り住んだ。当時は長屋とまではいかないけど、まだプレハブ建築のアパートなど主流になる前のことで、農家を営む地主が所有地の一画に小さな木造住宅を立ち並べてそこに借主が済むという、戸建てだけど集合住宅みたいな、何組かの家族によって集落がかたちづくられるような物件が多かっただろうと思われる。世帯向けでも四畳半二間とか六畳+四畳半とか、それに台所やトイレがあって、風呂は付いたり付かなかったりと、今の感覚から見れば驚くほど狭小な間取りの住宅だったはずで、それこそレトロな戦後昭和の暮らしとして郷土博物館などに実寸大で展示されてたりするような住空間だけど、あの空間感覚は、僕には妙ななつかしさというか、しっくりくる居心地の良さを感じるところがある。とはいえ我々が暮らしたあの借家は当時のスタンダードな間取りより一部屋は多かったはずで、なぜなら居間と寝室にあたる二間の他に、夕方になると盛大に西日が入ってくるもうひと部屋が、父親の仕事部屋として存在していたからだ。小さな部屋の中に、画材、郵便物、書籍類、その他諸々、ありとあらゆるものがぎっしりと詰まっていて、上から圧し掛かられるような圧迫感のある部屋だった。そしてその一部屋と引き換えみたいなわけでもないだろうが、たぶんあの家には元々風呂がなくて、おそらく洗濯機の置かれた脱衣所と風呂場は後から仮設されたのではなかっただろうか。今でも薄っすらと記憶にある、あの薄暗い風呂場のスペースはいったい何だったのか。まさか父が自ら作り上げたものではないだろう。さすがにそれは不可能なはず。だとしても、工務店などの業者に依頼して増築されたものにしては、やけに手作り感にあふれていた気もする。たぶん自分が小学生くらいまでは使われていたはずだが、あれは今思い返してもよくわからない。