妹・火薬

妹は僕より五つ年下で、生まれたのは一九七六年の七月である。僕と父は病院で生まれたばかりの妹をガラス越しに見た。そのときのことは今でもおぼえている。当時僕は五歳だから、まだ小学校に入学する前ということになるが、それにしては比較的鮮明な記憶として今も残っている。それから数年を経て、母は結婚前と同じようにふたたび看護師として働き始めていたので、出勤途中に自転車の後ろに乗せた妹を保育所に預けてから勤務地へ向かっていたはず。時間が不規則な仕事なので、場合によっては僕が保育所まで妹を送り迎えしたこともあったかもしれない。家には自家用車がなく両親共に運転免許未取得だったので、どこへ行くにも徒歩か自転車だった。当時あの土地であの生活は、今思えば無謀というかけっこう凄い。ちなみに父母はその後ほどなくして別居するが、父はその後も終生免許無し、母はたしかそのあと転職を機に免許取得して近所で中古車を購入したのではなかったか。

あの頃すでに未舗装の道は、ほぼ無かったはず。国道があって、旧道があって、枝分かれする細い道があって、そのほとんどが一応アスファルト敷きだったはずだ。とはいえ今のような整然とした計画の元で敷設がなされたわけではなくて、道幅にドロドロを刷毛で塗られたようなそれが、そのまま乾いて、やがて両側から埃っぽい渇いた土と砂と埃がはみだして道の境目をぼんやりと掠れさせてるような有様だったと記憶する。とにかく埃っぽかった。つねに砂嵐が舞っていたかのようなイメージさえ思い浮かべたくなる。埃と、土と砂、錆びた鉄と、こぼれて虹色に光る重油、放置されたかのような工事作業車、あとは雑木と用水路と雑草、雨が降ればいくつもの水溜まりと泥。それが渇けばまた埃が舞う。一九八〇年になるかならないかの頃だと思う。

当時の自分らにとっていちばんおもしろかった遊びは、たぶん火薬だった。爆竹が好きで、近所の同世代同士で集まって駄菓子屋で爆竹ひと箱を買っては裏の田んぼや雑木林の中でひたすらマッチを擦って点火させた。一本ずつ火を付けたり、束でまとめたり、ひと箱全部を火にくべたり、こまかくほぐして抽出し盛り上げた火薬の粉に直接を火を付けたりした。そんなことで日が暮れるまでのべつまくなしやかましい音を炸裂させて、今思えばあれは大変な近所迷惑だったと思うが、とくに何の問題にもならなかったところはさすがに昔だ。

硝煙の匂いが好きだったし、焦げ跡が好きだったし、飛び散った紙片の隅に小さく光る残り火も好きだった。破裂後にゆっくりと湧き出し立ち昇ってくる白い煙を見るのも好きだった。火そのものに魅かれていた。それは他の追従を許さぬ強力さであった。買ってもらったばかりの玩具さえ、魅入られて重宝するのははじめのほんの数週間足らずで、少しでも飽きられるとたちまちところどころに無数の爆竹を埋め込まれて、つい先日まで新品の艶を保っていたはずの玩具は、傷だらけの姿で哀れに自走させられつつ最期は爆破損傷の憂き目にあうのだった。

ある日一冊の雑誌が、家に持ち込まれた。「幼児と保育」という雑誌で、保育園児の運動会で玉入れする様子が表紙写真として印刷されていた。望遠レンズでかなり寄った画角で、体操着を着た子供たちが三人ばかり写っている、そのうちの一人が、妹だった。たまたま表紙に写りこんでいたのを偶然知り合いが見つけて、母に知らせてくれたらしかった。頭上の玉入れ籠を見上げた格好の妹は、眉間にやや皺を寄せた厳しい表情で宙を見つめていた。口が少し開いていた。