吉行淳之介の短編「驟雨」発表は一九五四年。現時点から五〇年代の日本を想像するなら、その材料としては成瀬巳喜男や小津安二郎の映画に描かれた世界を思いうかべたくなる。この小説の主人公は頻繁に娼家に出入りするのだから、溝口健二の「赤線地帯」を思い浮かべるのがふさわしいかもしれない。あの景色、あの群衆、あの雑踏の世界と地続きの世界をイメージして、この小説も書かれているはずだ。だが面白いことに「驟雨」は、かの映画に描かれたような、その街や雑踏のイメージをさほど強くは喚起しない。同じ時代に描かれた他の短編もいくつか読む限り、この作家の作品がかもしだす景色はいずれもそうで、要するに時代っぽさは希薄で、たとえばこれは八〇年代を舞台にした話ですと言われても、あまり違和感を感じない気もする。娼婦の集う地帯へ出入りする小説であるにもかかわらず、その時代特有の匂いがしないのは、そのような場の匂いを小説世界を構成する要素に必要としない、あるいは意図的にそれを省くことで小説世界を作りたいという意志のなすわざだろうとも感じられる。本作の主人公にとって、恋愛とは一線を画した相手=娼婦との距離関係が、自分と他者との関係においてもっとも好ましいと自覚しているが、そんな自分の内側に少しずつ変化があらわれていることもまた感じている。時を経るごとに、相手が客を取っていることへの嫉妬心や独占欲のような感情が沸いてくることに自分で驚き、それを自分なりに再解釈しようともする。そんな自分の内面描写が中心に据えらえれていて、勿論そのような小説は今や珍しくも何ともないわけだが、しかしこれが小津や成瀬の映画に撮影された、かの五〇年代かと思うと、それがむしろ意外で新鮮なものに思われてくる。昭和二九年ですでに、このような内的思索にのみに小説がリソース消費している状況、そのことが画期的だったのだろうと思う。
小説の後半において、娼婦街にとつぜん驟雨が降る場面がある。主人公は路地へ降り注ぐ雨を二階の窓から見下ろしており、通りを行き交う人や客引きする娼婦の声を聴いて、そのひとときにとつぜん「情緒」を感じてしまいかるく狼狽する。おそらくここにおいてはじめて「五〇年代」「場」「時節」といった、そんな歴史というか景色というか、主人公にとってのある従来性みたいなものが、いわばオバケのようにあらわれる。(突如として「墨東綺譚」のリメイクというか、そのワンフレーズが唐突にサンプリングされたかのようだ)。逆に言えばこの主人公あるいはこの小説と時間との交渉は、そこまでは停止していたとも言える。なるべくこれまでのしきたりとか従来のお約束ではなく、女や世界と関係をもとうとする試みが失敗する(娼婦との関係を描いた小説の歴史への、あらたな挑戦であり失敗)、そんな風にも読めると思った。
喫茶店で女と向かい合っているとき、通りの向こう側にあるニセアカシアの葉が、その枝からすべての葉がいっせいに落ちるという、一瞬意味が分からない、一度読んだだけでは何がどうなっているのか読み難いというか、想像し難い描写がある。このまるで子供が説明する夢の出来事みたいな、下手な冗談みたいなイメージの妙さ加減が、なかなかいい感じ。とにかく何かをすべて終わらせようという企みなのか。