東京干潟

日本映画専門チャンネルで、村上浩康「東京干潟」(2019年)を観る。多摩川河口の干潟で、蜆を取って暮らすホームレス老人を数年間にわたってとらえたドキュメンタリー。

こういうのを見てしまうと、自己嫌悪をおぼえないわけにはいかない。中途半端さの中にとどまったままの日々を過ごして、そのうち生涯を終えるであろう自分をかえりみて、そのことへの羞恥を自覚しないわけにはいかない。

ホームレス生活を送る人物をとらえたドキュメンタリーというのは、けっこうたくさんあるはずで、本作だけでなく他作品(映画だったのかテレビ番組だったかは忘れたが)を、かつて観たこともある。ホームレス生活を送る人の事情もきっと様々だろうが、少なくとも本作のような映像をみて、映像がとらえている人物に自分が感じさせられるのは、考えと行動が、ほぼぴったりと重なった生き方をしている人間のきれいさというか、毅然としていてシンプルで、言葉による説明も留保もほとんど必要としない、人間にゆるされた最大限の本質的清潔さをもって生きている、その眩さのようなものだ。言葉をなくすような、虚をつかれた思いで画面を見つめて、ふと自分をかえりみて、その濁りかた、その凡庸さを思い起こして気がふさぎ、でもこれは、自分には到底不可能なことで、こんなことを書いても結局は助からないどころか、むしろ墓穴を掘るに近いなど、保身めいたことをもくどくどと思って、それでますます気が滅入る。

ある人物を見て、その来歴や過去を聞いて、そこに時代の流れや社会問題を見て、その人物をそういった流れの影響を被った受動態の類例を見ることは大きな間違いだろう。ひとりの人間にそのような因果を見ることほど愚劣なことはない。物語化とは、要するに差別であり思考停止である。カメラがとらえている場面ひとつひとつを、それとしてきちんと見ることしかできない。大事なのは、自分には決して何もできないことを、甘えを捨てて自覚することだ。

この映画とは別のところで聞いた話だけど、あるホームレスが深夜に眠っていたら、いきなり窓から何かが投げ込まれた。びっくりして跳び起きて見ると、投げ入れられたそれは、コンビニ袋に入ったおにぎりやサンドイッチだったそうだ。その人物は怒りにふるえた。おれは野良犬や野良猫ではないぞと。

この話の最悪さは、コンビニ袋を投げ入れた輩が、おそらく自分は「善いことをした」とさえ、思っているかもしれないことだ。相手をまともに見ることなく、少しでも立ち止まって考えることすらなく、自分の稚拙なイメージに矮小化して、そんな自分の枠内だけの自己満足を求めて、くだらない思い付きを平然と実行してしまう浅はかさ。

自分はいつも、このエピソードをおそろしいと思っている。自分がもし「善行」を為そうとして、それがほんとうに「善行」なのか、そんなこと誰にわかるというのか。神様か?突き詰めたら、黙まるしかない。自分には決して何もできないという前提を通り抜けてない行為は、すべて害悪である。誰かを助けることができるという発想自体がおこがましいのだ。社会問題というフレーミングの欺瞞、それはそれでよくわかっているつもりだ。しかしわかっているだけではダメなのである。

こういう調子で書く文章だと、こうなってしまう。みたいな、そういうとこだな。