栽培

年末にはじめたルッコラの水栽培だが、一か月強の時間を過ぎて程よく成長したので、ではそろそろ…と夫婦頷き合って、翌日はスーパーでピザ生地に生ハムやオイルサーディンやオリーブなど買ってきて、くだんのルッコラもいよいよ食卓に供することとなった。

明日には食べられてしまう。そう思うと、ルッコラが少し不憫に感じる。LED灯の光を浴びながら何の心配もなく呑気に葉を広げている植物が、なんだか哀れに思えてくる。こいつは明日の今頃になったらもうこの世界にはいない。そう思うと、たかが植物とはいえある種の無常感をおぼえる。いっそのこと、このまま食用とせず、鑑賞用とみなしてこのままいつまでも栽培し続けることも不可能ではないけれども、でもそれは間違ってる。やはり食べるのだ。そのためにここまで来たのだ。食べられることで天寿をまっとうする、そんな在り方、むしろそれこそが、生き物本来の正しい在り方だとも云えないか。もちろんヒトも含めて。

しかし、あと十数時間とか、そういう計測可能な、あるまとまった残り時間というのが、とても嫌なものだというのも確かだ。死刑囚が、あらかじめ予告された翌日の執行時間を独房でただ待っているとして、考えただけでも正気を保つのが難しいような、想像を絶した恐怖がおしよせてくる、それはこの世の刑罰のなかでも、もっとも過酷で残酷なことではないか。いや死刑という刑罰の本質的な意義こそが、受刑者に死の時間をあらかじめ与え、そこへと至る時間を認識させ続けることに置かれているということか。

いよいよ執行のときが来て、ついに誰かの手が自分に掛かって、それがおそろしく事務的なゆったりと迷いのない正確な手つきだとして、伝わってくるこの温もりが、この馴染みの感触が、これから自分を処刑するのだとしたら、いま自分はぎりぎりの精神状況のなかで、そこにある種のやすらぎを見出したりもするのだろうか。板前の職人技で、あっという間に各部位を切り取られて三枚に卸される鮮魚のように、身体切断の爽やかささえ感じてもいるだろうか。

ルッコラたちはこうして予定通り、翌日の食卓にのぼった。たいへん美味しかった。食後にさっそく第二弾の栽培準備をはじめた。今回はルッコラのほかバジルもあわせて育てるつもり。