Catfish Blues

ふだんはジミ・ヘンドリックスのことなど忘れていても、突如として、その音楽が頭の中に降りかかってくるというか、襲いかかってくることがある。歩いていたら、ふいに1967年オリンピア劇場での「Catfish Blues」が頭の中に降りてきた。これまで何度となく聴いていたにもかかわらず、あの曲が現実にあらわれるとき、それは常に異常だ。どう考えてもすごい、只事ではないと思った

ニューヨークの小さなクラブで、デビュー前のジミ・ヘンドリックスが演奏していたときに、それを聴いた人々が受けた衝撃とはいったいどんなものだったのか想像してみたいのだが、これがなかなか難しい。「ジミ・ヘンドリックスの生涯」(トニー・ブラウン)の1966年あたりを扱った箇所から適当に読み返してみると、その当時彼の近くにいた人やステージを見た人の誰もが、そのすごさを口にしている。それは演奏そのもののすごさであり同時にパフォーマーとしてのすごさでもあるだろう。人前で演奏することがもたらす衝撃のおそらく最大級のものを、当時の人々は見た。それはわかるのだが、しかしそれが、いったいどのように聴こえてきて、どのように受け止めたのか、あるいは受け止められなかったのか、その感触をつかむのが難しいと感じている。もちろんジミ・ヘンドリックスがデビュー前の音源は、たくさん残っていて今でもそれを聴くことはできる。だからほんとうは、それがいったいどのように聴てきたのかという疑問をもつのは、おかしいのである。にもかかわらず、自分にはかねてからそれが疑問なのだ。そこで知りたいことは、音源そのものではないというか、いや、音源を聴かなければ何もはじまらないのだが、しかし残された音源だけでは意味がなくて、それがいったいどんな衝撃をもって届いたのかを「いま」体験したいということでもある。そのためには音源と「そのとき」の、両方が必要になる。「そのとき」を再現するためには、別のミュージシャンの演奏を聴いたり、少し時代を前後にずらして聴いてみたり、いろいろと書籍や過去情報を物色したり、そんな手探りをするしかないのだが、それでもそのことを「いま」にするのは、なかなか難しい。