タフなメンタリティをもち、我慢強く、視野の広さと、相手の感情を読み取る力も有していて、それでいて愛敬があり、屈託のない笑いが好きで、周囲をなごませてくれるような冗談を言う才能があって、周囲の人全員がリラックスしているときの雰囲気が好きで、その中での本人の表情はとても豊かで、眉間や眉がとてもよく動くから、遠くの人々にも目の動きと表情全体で、すごくありふれた感じの、人間一般の想像範囲内の様々なメッセージを伝えることができて、常に場の空気を好ましいものにしておくことが出来るしなるべくならそれが良いと思っていて、しかし本人の内側ではおそらく常に、不安と緊張と怖れの混ざり合った、引き裂かれるような苦痛を抱えていて、それらを含むすべてに対して、やれやれ、まったく疲れることだ、何もかもがまるで夢のようだな…、みたいな、他人事のように冷めた認識をもつ、そんな想像上の人物みたいなこの、強靭な内面を持ちながらも、おそらくは本来ありふれたどこにでもいる筈の、ほんとうなら普通の黒人の若者の一人に過ぎなかった、彼を見ていると、僕はどうしても、どことなくジミ・ヘンドリックスを彷彿とさせるように思えて仕方がなく、したがって本日北京で開催された百メートル決勝の試合が、なんとなくだがそれが、ジミ・ヘンドリックスで云えば1969年12月にニューヨークのフィルモア・イーストでのニュー・イヤーズ・コンサート公演に該当するような気がしてならなかった。つまりそれは、ある一つの区切りを示すのではないか、いやジミ・ヘンドリックスにとって「バンド・オブ・ジプシーズ」が何かの区切りであったのかどうかはわからないけど、しかし、2015年に北京大会でのボルトを見るとは、あるアスリートの晩年を象徴する出来事を見る事なのではないのかと思えてならず、それはすなわちジミ・ヘンドリックスにとっての、70年の幕開けに、重なるように思っていた。だからきっと、ウサイン・ボルトは、勝負の行方はともかく、今夜「バンド・オブ・ジプシーズ」のような演奏をするのではないかと思っていたのだ。…しかし、ボルトは勝ってしまったので、…話はまだ、これからのようだ。