アナキスト

昨日に続いて、柄谷行人坂口安吾論」読後メモ。

生きよ堕ちよ、どこまでも生きて堕ちきったところにしか救いはない、しかし、ほんとうに堕ちきるところまで行けるかというと、人間はそれほど強くない。生きる以上どうしたって何らかの「カラクリ」を必要としてしまうものだ。だから政治は、人間同士が最大限上手くやっていくための、小さな是正の、果てしなき繰り返しで良い。良くなるわけでも悪くなるわけでもなく、その都度の最大幸福を目指して、永遠に訂正され続けるものが政治で、それ以上でもそれ以下でもない。

空襲後の焼け跡で見た、死体をモノのように焼却作業していた若者たちの様子。安吾はそれを「まったく原色的な一つの健康すら感じさせる痴呆的風景で、しみる太陽の光の下で、死んだものと、生きたものの、たったそれだけの相違、この変テコな単純な事実の驚くほど健全な逞しさを見せつけられたように思った。これが戦争の姿なんだ、と思った。」(帝銀事件を論ず)と云う。

安吾の「人間がわかってない」「まず人間を知ることだ」というのは、その「人間」こそが「現実」であり「我々をたえずつきはなすようなもの」で、それを何よりも深く知る、ということだ。

安吾は本質的にアナキストである。安吾は「先ず自由人たれ」と云う。但し自らの「自由」のために他者の「自由」を侵してはならないことが原則となる。したがって「自由」を希求するには必然的に「平等」が条件となる。カントが「人間を手段としてではなく目的として使え」というとき、それは「他者を自分の目的として使え」という意味ではない。

他者を目的として使うことは避けられない。ただ、そのとき、同時に他者を目的(自由な存在)として扱うようにすべきだというのである。

それは、自己のみならず他者の目的にもかなうようであれ、という意味でもあるだろうか。

これは単に主観的な道徳論ではなく、他人を労働させることによって成り立つ古代国家から資本主義にいたるまでの生産様式に対する批判をはらんでいる。だから、新カント派の哲学者コーヘンは、カントにドイツにおける社会主義の最初の表明を見たのである。 

敗戦後にもたらされた、農地解放と、戦争放棄憲法、この二つを手にしていながら、これを「大革命」とすることができなかったということ。戦争放棄という世界最初の新憲法を作りながら、すぐに自衛権をとなえはじめ、農地再分配に対してもそれらを組織的、計画的に受け取ることをせず、手にしたものの価値をないがしろにし、単に利己的に勝手に処分して、あれほどの革命を無意味なものにしてしまった、ここに共産党無産政党の愚かさが露呈していると。

 ただし、アナキスト安吾の独自性とは、国家と区別されるネーション、その象徴としての天皇天皇制ありき、その基盤にある「社稷」、それを突き詰めた先にある「家」までをも批判の射程に入れたことだ。

安吾の平和論(アナキズム)は、国家の揚棄に基づいているが、それは一般的アナキズムともマルクス主義とも違って、カント「永久平和論」の影響下にあるといえる。すなわち「家」の制度を失うことによって、それ以上の秩序を、わがものにすること。


 戦争などゝいうものは、勝っても、負けても、つまらない。徒らに人命と物量の消耗にすぎないだけだ。腕力的に負けることなどは、恥でも何でもない。それでお気に召すなら、何度でも負けてあげるだけさ。無関心、無抵抗は、仕方なしの最後的方法だと思うのがマチガイのもとで、これを自主的に、知的に掴みだすという高級な事業は、どこの国もまだやったことがない。
 蒙古の大侵略の如きものが新しくやってきたにしても、何も神風などを当にする必要はないのである。知らん顔をして来たるにまかせておくに限る。婦女子が犯されてアイノコが何十万人生れても、無関心。育つ子供はみんな育ててやる。日本に生れたからには、みんな歴とした日本人さ。無抵抗主義の知的に確立される限り、ジャガタラ文の悲劇などは有る筈もないし、負けるが勝の論理もなく、小ちゃなアイロニイも、ひねくれた優越感も必要がない。要するに、無関心、無抵抗、暴力に対する唯一の知的な方法はこれ以外にはない。

ここで、安吾はガンディの無抵抗主義をもっと徹底させている。ガンディは、影響を受けたトルストイ同様に、共同体(社稷)に依拠するアナキストであった。しかし、それは結局ナショナリズムにまきこまれざるをえない。それに対して、安吾が提示するのは「家に代わる社会秩序」である。そして、このアナルシーこそ、「暴力に対する唯一の知的な方法」なのである。