社会人

日本映画専門チャンネルで、豊島圭介三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」(2020年)を観る。

騒然とした場内を前にしても、怯む素振りなどまったく見せないが、余裕を見せたり斜に構えるところもまったくない、只真剣な表情で前方一点を見たまま、マウントを取るでもなく言い負かせてやろうと意気込むわけでもなく、しかし媚びやへりくだって相手に取り入ろうとするでもなく、きちんとした大人の余裕と優しさとユーモアをたたえつつ、自然な態度で講堂を埋め尽くす学生たちに対峙している。これは、いったい何なのか。三島由紀夫という人間の不気味さというか、人間というもののはかり難さを思う。

三島由紀夫という人が、社会や世間的には、求められる何かに適応し続けてきた結果、昭和を経てあのようにまっとうな社会人の意匠をまとった、というのはわかるが、メディアにおけるスター、知識人・教養人、小説家、そのような存在である自分自身を自覚し、身をもって体現するというのが、結果これほどまでにきちんとした「完成品」に出来上がってしまうということなのか…と、あらためて驚嘆した。

見る人それぞれだろうが、少なくとも僕にはこの映像に残る三島由紀夫の姿に「ハリボテ」とか「にせもの」の印象は受けない。かりに「にせもの」だとしても、結果的にここまで作りあげることができれば、充分に成果として計上してしまえる。たとえこの人物の自宅の螺旋階段や庭の彫刻がチャチで薄っぺらい偽物だったとしても、この映像に映っている作家本人は十分に精巧で文句の付け所がない。

というか世の中で、立派な人、尊敬される人の「立派さ」とは、とどのつまり、こういうものだと思う。ここに映されているのはその典型だ。まるで絵に描いた富士山のように、あまりにも立派で、あまりにも典型的だ。

そして三島が、おどろくほど率直に自分という条件をはっきりと提示した上で、学生たちと話をする、そのことにも驚いた。学習院の卒業式で天皇から銀時計を授かったことがある、そのとき、三時間ものあいだ微動だにせず着席していた天皇陛下の姿が、あまりにも神々しくてすばらしくて、それを見た自分、そういう原体験をもった自分であるがゆえに、天皇を自らにおけるすべての根拠と考えてしまうのは、仕方がないのだと。自分はそのように生まれついたのだと語る。組織や国家、あるいは民族や人種、あらゆる条件、関係、意味、根拠から逃れた果てにある絶対の「解放区」を語る学生に対して、いや自分は、日本人で良いのだ、その枠を越えようとは思わないと返し、学生は呆れて二の句が継げずに仕方なく苦笑する。

人が何を思おうが、何を信じて何に帰依しようが、人の勝手だし人それぞれだ、しかしその思いの強さ、そうでなければ生きていられないというような覚悟の強さに、あらためて言葉を失くす思いがする。このときの態度があまりにも現実的なレベルで「まっとう」であるがゆえに、人の行為を駆動させる根拠が、その人の内面のどこに潜んでいるのか、その謎に今更のように途方に暮れる思いがする。

なぜ死んでしまったのだろうな…と、あらためて思った。このまま、きちんと完成した社会人として、完璧な大人のスター、文人、芸術家として、充分に生きていける人ではないか、それだけのものを(たとえニセモノであれ)きっちりと作り上げていて、あのままいけばどんどん「偉く」なって、立派な人間として、一生を送ることができたというのに、なぜそれを捨てたのか。

もちろん、三島がなぜあのような最期を遂げたのかについては、掃いて捨てるほどの言説があるのはわかっているが、むしろそれを忘れさせるようなものがこの映像にはある。

三島由紀夫のことをまったく知らない人がこの作品を観たら、いったいどう感じるだろうと思う。