組織化

雨になった。あじさいの葉が、深い濃緑色の葉の合間にこのあと花になる下準備の房を膨らませはじめた。まだ蒸し暑さには至らない、快適といっていい気温の朝なので、歩く気分を苛むような何のノイズも感じない。雨が厄介だとはいえ、これはまだ充分に気持ちのいい天気ってことだよなあ…と思いながら、駅までの道をいつもの歩調を保ちながら進む。

組織化とはやらせる側とやる側との役割分担化ということで、いわば詐欺グループのリスク高い側と低い側みたいなものだ。この世の中のほとんどの仕事は、実際にやる側とやらせる側の関係だ。そういうことは、ほとんど人は、意識せずとも薄っすらとぼんやりとはわかっている。頑張ってできるだけ出世したい、給料を上げたい、地位や名誉を得たいと考える人がいる一方で、納得できる範囲で責任をもてるだけの与えられた仕事だけこなしたいと考える人がいる。というか、それは別々ではなくて、きちんと責任をもって与えられた仕事をこなしつつ収入や地位を上げたいというのは勿論ある。しかしいずれにせよ組織における役割分担が、つまりやらせる側とやる側に分かれるというのは、これは所属する誰もが気づくしわかってる人は最初からわかっている。そういうことを最初からわかっているから、はじめから私はこの範囲でけっこうです、あなたたちのゲームのほんの一部にだけ参加させていただき、それだけの報酬をいただけますかと打診する、そういう人もいる。それが適うような契約を結べることもあるかもしれないしないかもしれない。

やらせる側は、やる側がそれに見合う技術を持っているかを査定する。やる側の思惑とやらせる側の思惑をすり合わせて、双方納得の上で契約に合意する。だからこれも、商取引のひとつではある。ただ雇用関係が対等に結びつくのはむずかしい。とはいえ被雇用者はいつでも契約を見直す権利がある。それが機能しているうちはまだ良い。

暴力組織、国家における軍とか、民衆運動から派生した自警団とか、そういった組織もまたやらせる側とやる側との役割分担で構成される。暴力組織の場合、フラットな雇用関係ではなくどうしても家族従属的、信仰的、家族的なものが、やらせる側とやる側との間に生成される。頑張ってできるだけ出世したい、地位や名誉を得たいとのモチベーションがより必要とされるし、場合によっては自己の心身痛苦や生命の損失とを引き換えにできるだけの、それに見合うだけの見返りが見いだされなければならない。そうではなく、納得できる範囲で与えられた仕事だけをやるのは不可能ではないが困難である(それを実現できるだけの技術力が求められる)。但し暴力組織に加わるならばその敷居は低く契約を結ぶのに必要な条件はさほど多くはない。

暴力組織をこの世からなくすには、やらせる側の誘いを拒むことで、これを可能にするために何が必要かを考えることだが、そもそもすべての組織は暴力を含むので、すでに自分が何に加担してしまったのかを考えることでもある。ほぼ考えても無駄、突き詰めたら自分を否定することになるのだが。

(いま貧困にあえいでいる人も、たいていはその枠内から外れているわけでない。貧困にあえいでいる人も、やはりすでに何かに加担していて、かつ貧困なのだ。)