Amazon Prime Videoで想田和弘「演劇2」(2012年)を観る。前半では、演劇祭やワークショップに招かれて偉い人との会合、会食等をこなす、劇作家というよりもビジネスマンでありスポークスマンとしての平田オリザの姿。見事な立ち振る舞いと社交術。営業マンやインチキなコンサルみたいな、妙に口の上手い嫌な感じとかでは全くなくて、いつもの通りの理知的な感じなのだが、パーティーや親睦会合など、独特かつ日本ビジネス的かつ正直無意味に近いような雰囲気の中でも、そつなくちきんと自分の立ち位置や役割を理解した上で、見事に大人としてわきまえた言動をもって場を共有する、その振舞いの人的な能力がすごい。こういう社会人としての務めをきちんと出来てこそ、はじめて劇団が運営、経営していけるのか…と。
業界内の位置付け、影響度、外国での評価、地域行事への貢献、啓蒙活動など、自劇団の活動についてきちんと把握し、記録を残して、社会における自組織存在の意味や役割を、要求があれば明確に示すことができる。そのうえで毎年の、文化庁をはじめとする各助成金申請などに必要な資料を作りこんで提出準備をする。これも劇団としてのきわめて重要な仕事だ。劇団そのものの存続に深くかかわる仕事である。
自分の仕事について、自らきちんと他者に説明する準備をする。他者がそれぞれ欲する形式、相手の都合に合わせた書式、体裁、仕様に落とし込んで、相手のフローでスムーズに流れるように加工する。社会システムの中に私たちの演劇活動を組み込ませ、さらにこの活動を続けるために、それは必須の作業である。存続のために、あらゆることをする。それ以上でも以下でもない。芸術をやり続けるとは、とどのつまりこういうことなのだ、これが掛け値ない事実であると、そのことが感情を高ぶらせるわけでもなく、悲観も楽観もなく、淡々と語られる。もちろん実情は厳しいものだ。ゆとりのある経営とはとても言えない。それどころか、その年の助成金が下りなければ会社は存続できないというのが、厳粛たる実情だ。それを含め、契約、ギャランティ、売上、経費、粗利、利益、何もかもが演劇の、芸術の問題である。もちろん平田オリザだけではなく、少なくともこの日本で芸術をやるというのは、つまりはこういうことだ。
「演劇1」「演劇2」合計で六時間弱のドキュメンタリーだが、見ごたえ充分というか、もっと観ていたい。ドキュメンタリーの、ただひたすらその時間を撮影し続ける手法というのは、まったく映像鑑賞という時間感覚がおかしくなってしまう、いつまでも観ていても気にならなくなってくるというか、それがいつか終わるというのが実感し辛くなってくる。