ポロポロとは


田中小実昌のポロポロで、ポロポロについて多少なりとも説明らしき何かになってそうな箇所に小紙片を貼りつけてみた。たとえば下記のようなところ。

みこころならば……みこころが成るようにしてください、というのは、神への要求でもなければ、自分への願いでもない。ただ、神をさんびさせられているのだろう。言葉は、自分の思いをのべることしかできない。イエスは、自分の思いをのべているのではないのだ。

オリブ山(ゲッセマネ)で、イエスはこう祈った、と聖書には記されているが、実際に、そのとき、イエスの口から出た音は、言葉ではなく、ただのポロポロだったのだろう。

だが、ポロポロは宗教体験でさえない。経験は身につき、残るが、ポロポロはのこらない。だから、たえず、ポロポロを受けてなくてはいけない。受けっぱなしでいるはずのものだ。見当ちがいのたとえかともおもうが、これは、断崖から落ちて、落ちっぱなしでいるようなものかもしれない。


というか、ポロポロとは何なのか?を考えても意味がない。というか、ポロポロはポロポロでしかない。で、まずポロポロよりも何よりも、その語り口というか、文体が、ものすごく魅力的で、まったく力の抜けたようなスカスカな文体で、それがかえってすごく強烈だ。ひとつ文章のもつ力が爆発的で、一行読むごとにかなりの衝撃を受ける感じ。


「見当ちがいのたとえかともおもうが、これは、断崖から落ちて、落ちっぱなしでいるようなものかもしれない。」という箇所など、どう考えてもどうかしているとしか思えないのだが…しかしこれは、ほんとうにによくぞ書いたなあとおもってしまう。


ポロポロの次の作品「北側はぼくに」もさっき読み終わった。おもわず呆然とする。

軍医の将校たちは、みんな軍刀をつって、長靴をはき、それに、将校服がいやにグリーンっぽく見えた。グリーンというか、青っぽくというか、ま、グリーンのほうだろうが


などという文章が出てくる。この箇所ではさすがに、きょうれつな衝撃と感動があった。「グリーンというか、青っぽくというか」とか、そんなの、これほどどうでもいい話もないとおもうが「ま、グリーンのほうだろうが」って…なんでわざわざそんなこと書くのか、まったく意味がわからなくてものすごい!とおもった。いや、冗談抜きで、小説というものの秘密を、僕はひとつ掴んでしまったような気にさえなった。いわく小説とは、ものすごくどうでもいいような、究極的にどっちでもいいようなことについて書いてあるものなのだとおもった。そこに意味はないし、価値もないのだ。ただ事実としてあるのだ。だからそれは如何に意味も価値もなくした事実として、そこに在るか?が問われているのだ。いや、言い直す。問われていない。問われる以前の、意識される以前の事実のことだ。如何に、ものすごくどうでもいいか?そこに、すべてを賭けているのだ。いや、「賭ける」などという言葉自体が、全然、小説的ではなくて「究極的にどっちでもいい」という言い方も既に、何がしかの過剰物が添加させられていて、本来のどうでも良さの、事実としての事実らしさの喪失を含んでいて、いや、喪失というよりは添加による汚損という感じで、いわば、どうでも良さというものが混じり気なしの純度100%だとしたら、それを言葉にした時点で既に純度は激しく下がってしまうようなものなのだが、でも、そういう言葉から匂ってしまう純潔主義的なものでもない。澄んでいようが濁っていようが、賭けようが賭けられようが、いずれにせよ、ものすごくどっちでもいいような、どうでもいいような、書かれなくても一向に問題ないような事実が、今ここで、目の前で書かれている状態であることなのだ。そういう小説のおもしろさとしての、田中小実昌のおもしろさを明日以降も引き続き読み進む。