大人の休日

JRの駅の構内に、吉永小百合のポスターが貼ってあるのをよく見かける。その図像を見つめていると、きっと今や、吉永小百合というのは、人間であると同時に、すでに菩薩とか観音様みたいなものとして受け入れられているイメージなのだろうな…と思う。誰もがその外見を、うつくしいと言い、称賛し、あがめたてまつる。それはほとんど、古寺仏閣の仏像を観た人が口にする感想を聴いているようだと思う。それはたぶんもはや美ですらない何かだ。

それでも僕より幾らか年上の男性にとっては、吉永小百合がもっと「リアル」な存在ではあるのだろう。つまりそれは、菩薩でもなく鑑賞品でもなくて、ほかならぬうつくしい人間の女であり、憧れうる対象の範疇におさまるということだ。つまりこの時間と空間を、この私と吉永小百合が同時に存在しうる可能性を信じることができるということだ。そのようなイメージを、もはや僕は吉永小百合に対してもつことは出来ないのだが、それが可能な年齢の人もいる。それが可能であるときと、それが可能であることが想像もつかないようなときと、ふたつの断絶のちょうど合間に、いまの自分が位置づいている感じもある。