異形の者

武田泰淳「異形の者」を読んでいて、途中の箇所で、あ、これは…と思って調べたら、石原慎太郎太陽の季節」の、有名な男根での障子突き破りの場面は、どうやらこの作品から着想したものらしい。まさに読めば誰でもすぐにわかるサンプリングの元ネタ、という感じだった。

しかし石原慎太郎というよりも、ここには遠藤周作が「沈黙」で取り上げるモチーフがそれに十年以上先立って、より簡潔で鮮やかなかたちで、すでに展開されているようにも思われる。本作の主人公は僧侶見習いとして加行の日々を送りながら、おそらくは信仰への道に自分が入っていけるとははじめから思ってはいない。というよりも、信仰の道へ入って行こうとする者、あるいは自分の決め事に突き進もうとする物への根本的懐疑、そのような流れ自体への疑いを、どこかで捨てることができない。そしてそのことに自家中毒的に悩むわけでもなく、ある程度世間をわかった態度で、おとなしく小利口に政治的な中庸を目指そうとするが、その選択によって、最終的には「宿敵」との生死を賭けた決闘を避けられない運命へと導かれてしまう。

それにしても仏像というものは、まさにこういうものだなあ…と思う。いや、人間が、仏像を見るときの心の動きというか、仏像に対して感じる何かを、これほど見事に抽出した事例もあまりない気がする。それはつまり、宗教というものに対する反応、宗教的なイメージを前にしたときの人間の心身的なこわばり、抵抗、納得の仕方というものの、きわめて正確な言語化の成功例とも言えるだろうか。(おそらく大多数の人にとって、仏像とは、以下にあらわされたような姿で、こちらの目にうつるものではないだろうか。)

 

 金色の仏像はなかばかがやき、なかば影をおび、私の頭上はるか高いあたりを見つめた形で置かれてあった。蝋燭の光りが下方から照すため、大きな鼻も口も、かなり変った形に見えた。その肉の厚みは重々しかった。その目には黒く塗られた眼球はなく、少し凹まされたその刻み目だけがクッキリとした線を描いていた。しかしそのきつい眼は、たしかに何物かを注目しつづけている、カッと開かれた眼にちがいなかった。見るという行為を一瞬も止めない。未来永劫それをつづけそうな眼であった。
 その上、それは私などをチラリとも見やらず、全然別の方角にむけられていた。そのくせそうやることで、それは充分に私の全身、その内部まで見抜いている風であった。 
「俺はこれから決闘に行く」と私は彼を見上げながら、考えた。「それもあなたは見通しているのだろう。今これから髪棄山にでかけて愚劣な行為にふける、そんな俺の運命も、みんな計算し、指導しているのだろう。俺がそれを中止するにしろ、断行するにしろ、みんなあなたはそれを前もってきめてしまったのだろう」
 手にした蝋燭がつい傾くと、仏像の横手の強大な影がのしかかるように私の全身に倒れかかった。
「さまざまな執念があなたの前にささげられた。死んだ尼僧や、親族を失った老若男女の、涙が何万石となくささげられた。俺もこうしてあなたの前に坐っていると、馬鹿らしいとは考えても、何かしら本心を語りたくなるのだ。あなたは人間でもない。神でもない。気味のわるい"その物"(傍点)なのだ。そして"その物"(傍点)であること、"その物"(傍点)でありうる秘密を俺たちに語りはしないのだ。俺は自分が死ぬか、相手を殺すかもしれない。もう少したてば破戒僧になり、殺人犯になるかもしれないのだ。それでもあなたは黙って見ているのだ。"その物"(傍点)は昔からずっと、これから先も、そのようにして俺たち全部を見ているのだ。仕方がない。"その物"(傍点)よ、そうやっていよ。俺はこれから髪棄山に行くことにきめた」