円環の廃墟

ボルヘス「円環の廃墟」を久しぶりに読んだ。

主人公である彼は、まがりになりにも何かを作ろうとしてそれを試す。彼が円環構造の世界にあったとして、しかし、何かを作り出そうとするその挑戦、それは少なくとも彼にとって、まったく未知な、初の試みであるはずだ。

一人の人間を夢見ること、完全な形でそれを夢見て、そして現実へと押し出す、その最初の試み、大学の講堂のような場所で複数の学生たちに講義をするなかで、見どころのありそうな一人の学生を育てようとするが、その目論見はあるとき唐突に破綻する。

試みの困難さを痛感した彼は疲労困憊し、自らを回復させるまで夢も見ずに身体を休め、機を見てまた試みを再開する。最初に心臓ひとつを、その後その他の器官も少しずつ夢見ていく。ことなるやり方が功を奏したのか、ついに彼は、完全な一人の若者を作り上げることに成功したようだ、しかし若者は、目を開けず口もきかない。その後、神殿に生贄が捧げられ、彼だけの力ではない火にまつわる何らかの魔法が加えられたことにより、若者はついに現実へと押し出される、彼の夢はかなったようだ。その後、彼はその若者を「息子」と認識している。親として彼のことを想像し、彼を気遣い、心配する。

この物語の最後に彼が悟ったこととは何なのか。彼自身もまた、誰かによって夢見られ現実へと押し出された存在であるという、彼自身を含むこの世界の構造を把握したということなのか。そうかもしれないが、それだけでもないようにも思う。彼は依然として、一人の人間をつくりだすその願いを、心に宿さざるをえない存在であることから抜け出ていない気もする。むしろそのことのさらなる困難さに再び直面したかのようでもある。僕にはどうも、「円環の構造」というこの作品は、人間が作品をつくるということにまつわる困難さをめぐる話のように感じてならない。

最後に彼は、自らの生命が終わりを迎えようとしているのを悟る。彼が悟るというのは、やがていつか、彼の息子が悟ることでもある。そのことを想像して、彼は息子を気づかい、かなしむ。とはいえ彼の知ったこのことを、いつか息子も知るのならば、それは彼の試みがついに完全に成就したことでもあるのかもしれない(彼は自分も夢見られた存在であることを知ったと同時に、自分もまた誰かの息子であったことを知ったとも言えるだろう)。

しかし本当にそれだけのことなのか。、そのような円環の仕組みを知らないから、何かを夢見て現実へ押し出さずにはいられないというだけのことなのか。親子がなぜ片方向にしか思いをかけられないのか、作者はなぜ(まだ生み出せてない)作品を片方向からしか想像できないのか。