正直

推薦の言葉を求められたので以前読んだ時の印象を思い浮かべるのだが、やはり、大変正直な戦争体験談であるということで推薦の言葉は足りると思う、それほど正直な戦争体験談なるものが稀れなのは残念なことである。
 僕は終戦後間もなく、或る座談会で、僕は馬鹿だから反省なんぞしない、悧巧な奴は勝手にたんと反省すればいいだろう、と放言した。今でも同じ方言をする用意はある。事態は一向変らぬからである。
 反省とか清算とかいう名の下に、自分の過去を他人事の様に語る風潮は、いよいよ盛んだからである。そんなおしゃべりは、本当の反省とは関係がない。過去の玩弄である。これは敗戦そのものよりも悪い。個人の生命が持続している様に、文化という有機体の発展にも不連続というものはない。
 自分の過去を正直に語る為には、昨日も今日も掛けがえなく自分という一つの命が生きていることに就いての深い内的感覚を要する。従って、正直な経験談の出来ぬ人には、文化の批評も不可能である。

小林秀雄吉田満の『戦艦大和の最期』」

上記が書かれたのは1949年。ここでの「正直な経験談」という言葉を、こののち「戦艦大和の最期」のいくつかの場面をめぐって生じた問題とはひとまず別で考えたい。「正直」とは、客観性や正確性という意味ではなく、むしろその逆でさえあるだろう。

そして以下に引いた1979年の蓮實重彥の言葉は、小林秀雄とほぼ同じことを言ってるのだと思う。「問題」に対して「反省」の身振りなど示すな、それを思考だなどと間違っても思うな、正直であれと、ひたすら口をすっぱくして言い続けているのだと。

ここでいかにもいかがわしいのは、それを問題と呼ばねば気がすまぬという風潮の蔓延である。これはいかにも重要な問題だと誰もが思う。それこそ思考するに値する特権的な現代の課題だ。その解決は困難であろうが、まさにその困難と戯れることこそが、われわれを今日の思想状況にふさわしく鍛えあげてくれる高価なる試練であるに違いない。そこで人びとは、率先して、あるいはまた誰かの言葉に刺激されて困難を「自分の問題として(傍点)」引き受け、その解決を求めて「主体的に(傍点)」思考し行動してみようと思う。絶えず思考し行動し続けるのではないにしても、というのはだいいちそんなことは不可能だからだが、暇があるとか、機会に恵まれさえすれば、そうすることが科学的倫理性もしくは倫理的科学性にかなったやり方だと信じ込む。ところが、この問題解決に向けて姿勢を整えんとする薄められた善意の共有こそが、無意識に張りめぐらされた「制度」の罠なのだ。「問題(傍点)」とは、「制度」の捏造する具体性を装った抽象にすぎず、生きられつつある現実ではいささかもないからである。現実とは、それが生きられつつある瞬間には、方向を欠いた多様なる意味がわれがちにたち騒ぐ無表情なる表層にほかならない。生きるとは、距離もなく中心もなく、ひたすらのっぺらぼうな意味作用の磁場に身を置き、その白痴の表情と向かいあう残酷なる体験を不断に更新することだ。そして「問題(傍点)」とは、その無表情な残酷さをいかにもそれらしいイメージに置きかえ、それが欠いている方向と意味とを捏造し、ありもしない輪郭をことさらきわだたせ、世界を構成するあまたの事物や存在とがそこへ向けて秩序だった配置ぶりを示す偽の中心を捏造しようとする現実回避の恰好の口実なのだ。それは、世界の無表情をそれらしい表情にすり換え、そのすり換えによって自分自身の顔と名前とを確信しようとする、白痴の残酷さの放棄なのだ。

蓮實重彥「表層批評宣言」

以下は、なんだか妙に、我がこととして、ぐさーっと刺さった…

真の感動とは、欠如を補うかりそめの生ではなく、生の過剰による生の充実でなければならない。「問題(傍点)」もまた、それが抽象ではなく真に具体的なものであるなら、欠如を補うかりそめの試練ではなく、思考の過剰による思考の充実でなければならない。欠落を埋めるものとしての感動、距離を越えるものとしての問題の解決とは、埋められ越えられた瞬間に感動であり問題の解決をやめる。かりそめの過渡的なものにすぎないだろう。それが可能にするものは、生ではなくたしかに時間がすぎてゆくと思いつつ生をなし崩し的にやりすごすことであり、思考ではなく、たしかに自分は何かを考えている思いつつ思考を曖昧に放棄することにほかならない。それこそ、具体性を抽象ととり違えるということの意味だ。世界の全体像の確立も自己同一性の回復も、人に、たしかに自分は何かを考えていると思わせ、たしかに時間が過ぎてゆくとも思わせることで生と思考とをついえさせる、現実回避の罠なのだ。そして何より恐しいのは、この罠を張りめぐらせるものが、決して権力と呼ばれる思考と行動の統治機構ではないということだ。おそらく権力もまた、その罠の犠牲者であろう。そしてその犠牲の深刻さに多少とも自覚的であるが故に、権力こそが崩壊と喪失の神話を、もっとも巧妙にあたりに波及させる術を心得ているのだ。権力とは、それがいかなる政治体制下にかたちづくられるものであれ、具体性と抽象とのこの上なく精緻な交換装置なのである。そして不幸なことに、わたくし自身をも含めて、人は、ほぼ例外なく、この交換装置とほぼ同質の装置をいささか小規模に装填した思考装置たることをまぬがれてはいないのである。

(同上)