確率の外

ワクチン接種で副反応が出るかもしれないとして、それは確率の問題になる。確率という世界に閉じ込められるのを嫌う人は少なくない。僕もそうだ。ある条件下で、不運な人が避けがたくあるとして、それに該当する可能性は自分にもあるということを、ふだんは気にせず生きているが、それを思い出させるものから身を遠ざけていたいとは思う。たとえば飛行機という乗り物に、僕はなるべく乗りたくはないし、乗ると決まった場合、どうしてもある種の覚悟を決めないではいられない。ワクチン接種だって、もしかしたら今日が自分の人生最期の日になる可能性も、ほんのわずかながらあるならば、やはり万が一にそなえて、この世にさよならを言っておきたい気持ちはある(とはいえそれは制御できないほど強い抵抗感ではないので、内なる心のざわめきをかすかにおぼえつつも、最終的には飛行機にも乗るしワクチンも接種するのだが、それをしたくない人の気持ちはわかる)。

たとえばギャンブルに打ち高じる人は、自分の生が確率の問題では割り切れないということを、身をもって示そうとする人だとも言える。よく誤解されがちだが(そして一部にはそのような考え方のギャンブラーもいるだろうが)、人がギャンブルに求めるものとは、もっとも高確率で堅実で安定的な利益の追求などではなく、確率の世界から自由にふるまうこと、あるいは確率の動きを逆手にとる、確率の枠に先回りしてふるまう自分をたしかめることにある。それは絶対に落水してはいけないサーフィンのようなものだ。絶対に落水してはいけないサーフィンに挑戦すること自体がばかばかしいと「常識的な人」は言うのだ。しかし笑う人は、誰もがはじめから絶対に落水してはいけないサーフィンをしていることに気付いてない。誰もが絶対に落水してはいけないのに、いずれ誰もが絶対に落水するのである。

合理的には不可能と思われる運動が継続することの、そのような運動体としての自分自身をたしかめたいという思いがあり、試すことで、何事かが成り立ったときの安堵感というものがある。それはおそらく自らの采配で入手することに成功した、真の意味での安心感だ。