千住新橋を渡りながら、荒川を見下ろしているときの、この感じは絶対に写真に撮れないものだなとつくづく思う。それは視覚だけではない、もっと複合的な体験で、それは人間の力の及ばないような、感覚というものを超えた、頭で考えるための仮のモデルさえ与えることが不可能なくらい遠くの、もっと先の領域に属するところが、なんとなく薄っすらと見えている感じがある。





橋の手摺りに身体を寄せて、乗り出すような格好で真下の景色を撮るのは、もの凄く恐い。橋というのは、相当大きな立派な構造のものであっても、実は行き交う人々や自動車のせいで、想像をはるかに越えるほどの勢いで、ぐらぐらと揺れて振動する。立ち止まって、手摺りにもたれてじっとしていると、震度3か4の地震と変わらないほどの揺れに感じられる。それはじつに、恐い。今ここに立って、腕を伸ばしてレンズを下に向けて撮っているけど、自分の居るまさにここが、境界線だ。下は、僕にとっては、死の向こう側だ。今この橋の手摺りが死の淵だ。そしてこの激しい揺れ。





上野の西洋美術館で「モネ、風景をみる眼―19世紀フランス風景画の革新」を観る。去年箱根に行ったときポーラ美術館で観たものと同じやつで、再びさらにじっくり観ようと目論んだ訳だが、残念ながら凄まじい混雑で、入場して5分であきらめて早々に退散となって、入場料金がもったいないだけだった。…しかし、モネの船遊び。猛烈な乱暴さの、あいかわらず野蛮きわまりないというか、何度観ても絶句するような絵だが、あの船の上と、水の上も、まさに境界線で、彼女らは船から落ちたら死ぬというか、まさに死の淵というか、まあ勿論死にはしないだろうけどでもやはりそれはあってはいけないことで、そうなったらとんでもないことだから、そうなってはいけない、ということが込められているような絵にも思えて、何か越えてはいけないラインの、ギリギリのところをうごめいているものが、それが視覚だけではわからないような、まして写真にも写らないような、水の感じというか、もっと先の領域に属する得たいの知れぬ何かのような。