私は黄色です

私は悪人です、と言うのは、私は善人です、と言うことよりもずるい。私もそう思う。でも、何とでも言うがいいや。私は、私自身の考えることも一向に信用してはいないのだから。…という、坂口安吾の言葉がある。

私が「私は悪人です」と言うのは、内なる悪を視野におさめた適切な距離にいる悪人たる私を認識した私がいるから、はじめてそのように言える。私はそのように言えるということを、言下に言おうとしている。だからずるいのだ。

しかしそのずるさは、きっと他者に見抜かれ、ずるいと言われるのだ。私は善人でも悪人でもなく、ずるい人だと他者は見抜く。私はそこまで予想している。予想する私までを言下に言おうとするわけでもない。このような仕掛けが水掛け論をまねくことはよくわかっているつもりだ。少なくとも私はそのような考えを含めて、私の考えることすべてを信用してはいない。それは水掛け論を脱臼させるためというよりも、それへの虚無が私に私を信用する気をなくさせる。私が私を信用しないということは、私が想像する悪人も善人も、ずるさも、それを判定する他者のことも、すべて含めて信用しないということになる。そして、そのような私がじっさいにどのような者かを、私が説明できることができない。これはそのような者によって書かれた言葉だ。


テレビのニュースを見ていた妻が言った。

「膝よりも高い位置に水が来たら、もう自由に歩けないんだって。」

それを聞いて僕は言った。

「僕は、週に何度か水泳もしてるし、泳ぎはまあ、人並みかそれ以上に、経験があるでしょ、自分では、そう思ってるわけだ。でもそういう人こそが油断をもって海や川でおぼれ、遭難したりするらしいね。」

そう言ってから思った。自分は泳ぎが得意とはまでは言えなくても、人並みには泳げるし、現に今もたまに泳いでいる。だからと言って水害時の海や川を、自由に泳いでも大丈夫だとは思わない。僕はそう考えている。だから僕は、僕が危険な場所にみずから近づいて遭難するようなことはないと、言下にそれを言いたかったのだろうか。

それから、ずいぶん昔の本だが、椹木野衣「テクノデリック」(1996年)にあった忘れがたい箇所を思い出した。

ディーヴォリキテンスタインゴッホという、一見して支離滅裂としか考えられない三者に共有されているもの、それはすでに見たとおり、黄色といういくぶんか謎めいた色彩である。
 考えてみれば黄色とは、奇妙な色ではある。黄色に関して身近に思い当たるものは何だろうか?たとえばそれは、小学生のころの記憶をたどれば、ランドセルのカヴァーに使われたビニールの色であり、あるいは雨の日の登下校に欠かすことのできなかった傘やレインコートの色である。これらが、小学生たちの存在を遠距離からでも確認できるように人に注意を喚起させるためのものであることは誰でも知っているし、ほかにも信号の黄色であるとか、交通標識でも黄色を使用したものはことのほか多い。
 どうやら黄色は他の色彩に比較してもとびきり目立つ色であるらしい。それがこの色がひとに注意を促すために再三にわたって使用されている理由のひとつなのだろう。
 しかし、黄色という色彩は、こうした制度の中においてだけでなく、自然界においてもわれわれに警戒を促す色彩であるらしい。そのなかでももっとも典型的なのは、スズメバチかもしれない。スズメバチは、きわめて危険な昆虫である。その毒性はもちろん、攻撃的な性質や、行動の習性など、すべてが警戒を要する。
 このハチの腹部は、よく知られているように、黄色と黒が交互に反復される模様で飾られている。それは非常に目立つものだが、だとしたらこのハチは、みずからが獰猛で毒性の強い存在であることを、隠しもっているのではなく誇示しているのだ。
 このことは示唆に富んでいるように思われる。というのも、スズメバチにおいては、その外見が、そのまま内容を告知するかたちになっているからである。もっとわかりやすくいえば、スズメバチは、俺には毒があるのだ、と叫びながら飛んでいるのであり、なおかつ、相手を刺すのである(笑)。
 これは、いかにも毒がありそうな色彩や形態をしていながら、実際はまったくそのような武器を有していない昆虫や、いかにも毒がなさそうな色彩や形態でありながら、実際には信じられないような猛毒を備えているような擬態の様相とは、根本的にことなっている。スズメバチが黄色であるということは、なにか本質的なことであるかのようにすら、思えてくる。そのような誇示されうる価値としての毒が、体表の黄色という、人の注意をひかざるをえない色彩において示されているのだから。

(「テクノデリック」84~85頁)