書込み

本を読んでいて、ページ端や気になった箇所に付箋を貼るのはたまにやっていたけど、本にもよるけど、最近は付箋ではなく、鉛筆でページ内のところどころに、書き込むようにしている。先端を尖らせたHの鉛筆で、弱い筆圧で、読んで思ったことや、ここは重要だと思ったことを、文字として書いたり、絵を下書きするときのように何度も線を重ねたり、特定文字だけをグルグルと丸く囲んだり、ある箇所からある箇所へ、ときにはページをまたいで、矢印の線をすーっと引っ張ったり、順番を示す番号を入れたり、複数行を薄く塗りつぶしたり、あとで意味不明になってもかまわないので思いついた一言二言を書き込んだりもする。それはメモ書きでもあるが、同時に読んでいるときの気分を、鉛筆の筆致であらわしているというか、筆致の感覚に置き換えているようでもある。こうすると、本を読むことが、俄然主体的で前向きな行為になるというか、受け身な要素が後退して、自らの行為をもって対象にガシガシと切り開いている感覚が得られる気がする。まるで山登りのように、これまでの成果を取っ掛かりにしてさらに先を進むという感触を得られる気がする。

むかしクリストファー・ノーランが作った「メメント」という映画があった。その主人公は特殊な記憶喪失者で、ひたすら直近の過去を忘れてしまうという設定で、いまこの私がさっきまで何をして何を考えていたのか、ことごとくおぼえてないという人の話で、だからその場その場で、ひたすらメモを残す。そして次の局面では、無知なる自分が過去に残したメモを頼りに次の行動を決める。

鉛筆で、考えたことや必要に思ったことなどを一々書き込みをしながら本を読んでいると、「メメント」のことを思い出してしまう。というか、本を読むという行為は、ほとんど「メメント」の主人公と同じ条件を生きているようなものではないかと思ってしまう。なにしろ、前のページに書いてあったこと、それを読んで思ったこと、それ以前との関係について感じたこと、それらは次のページに移るやいなや、ほぼ瞬時に消え失せてしまうのだ。書きながら読むと、書かないで読んでいるときに消えてしまう事柄を強く意識できる気がする。というか、書きながら読むと、次のページの出来事に触れたときに、以前の感触をかなり鮮明に保持したままでいる自分に気づいて、ちょっと反則を冒しているような気にさえなる。読めているところと読めてないところが、かなりはっきり目に見えて判別できる。進んでいるという確かな感触がある。それは書き手が書いた後に読み返しているときの感触に、少し近付けているような錯覚に近い気がする。