VHSで昔買ったまま観てなかった溝口健二「マリヤのお雪」(1935年)を観る。
西南戦争の時代、戦火の迫る土地から逃れようとする薩摩地域のお金持ち家族と二人の娼婦(?)が、乗り合い馬車に同乗する。原作はモーパッサン「脂肪の塊」で、これを元に作られたもう一つの映画に、ジョン・フォードの「駅馬車」がある、と。
前半は、まあこんなもんか、、と思いながら観ていたのだが、中盤以降にあらわれる官軍将校との恋愛感情を交えたややこしい感情のもつれが出てくるあたりから、俄然溝口的な味わいが前に出てくる感じだった。貧しくとも慈悲の心に溢れた娼婦のドラマと、恋に翻弄されるものの身の程と世のしきたりを悟ってただ忍ぶ女というドラマであれば、少なくとも溝口的なモチーフであれば生き生きと輝くのは後者ということか。しかし結果的に、映画タイトルと内容にはちょっとズレがある。
そのようなドラマがはじまるといきなり、カメラが的確な位置に据えられて、二人の人物が奥と手前に配置され、あらゆる物事が取り決めの通りに、すーっと進んでいく。この規定されたかのような「悲恋」の運動にともなう驚き。すべてがはじめからそうであったかのようなのに、なぜそれは新鮮に感じられるのか。