OR

ダムタイプは実際の舞台上演を観たことがないし、映像記録でも「OR」までしか観ていないので、正直いろいろ語る資格もないようなものだが、VHSの「OR」を久々に観た。

「pH」や「S/N」もそうだが、ダムタイプは冒頭でいきなり強烈なインパクトがある。最初の15分かそこらで、その作品の印象の大部分が決定されてしまうほどである。「OR」もまさにそうで、これほど素晴らしいオープニングの5分間がこの世にあるだろうかと思わされ、ある意味ダムタイプ的美学の最高到達地点ではないかとさえ思わされるのだが、あらためて観直してみると「OR」という作品そのものは、かなり多様で雑多な要素がいっぱい詰まっているのだった。古い記憶から来る先入観で、きわめてストイックで耽美的なイメージを想像していたのだが、「OR」じゃなくてむしろ「pH」の方が、よほどストイックな印象である。観たのが久々過ぎて、ほとんど忘れていたからとはいえ、この再見での印象は意外だった。

「OR」そして「s/n」で強く印象的なのは、やはり強烈に使用されるストロボ照明であろう。この明滅下において人体のイメージは極限まで希薄化・抽象化する。マイブリッジの写真のような、あるいは磁気テープやレコードを逆再生したときのような「テクノ」テイストが、舞台においてここまで実現できるというのはすごいことだ。さいきんは知らないけど、一時期は現代美術などのインスタレーションでもストロボを使った展示とか、ずいぶんよく見かけた気がする、そもそもプロジェクターのこういった使い方とか、機材の露出のさせ方とか、展示作品としての"上映時間"に対する感覚とか、ダムタイプが現代美術にあたえた影響というのはかなりのものではないかと思う。

「OR」も「pH」も、「三人の女」が、演者として舞台に立っている。彼女らが、作品の主要登場人物である。但し匿名的な「pH」に比して「OR」の女たちは、それぞれ「人格」が与えられている感じはある。すくなくとも表情が見え(表情を使った演技がある)、衣服にも、個別性や与えられた社会性のようなものが垣間見える。このことが「OR」の世界に、不思議な具体性をあたえている。何かどこかで我々の世界と地続きな空間での出来事なのではないかという感じを起こさせる。ある同一性に基づいた登場人物たちがおりなす、なんらかの物語なのではないかとの予感を許してくれそうな気配さえある。

そのようでありながらも「OR」は、きわめて美的にストイックなイメージとあやういほど具体的な人間のイメージとで、ほとんど分裂していると言っても良い。ストイックさが、最初と最後で蓋を閉じているので、事後的には全体がそんなイメージに感じられるのだが、真ん中には全くそうではないものが、ほぼ脈絡なく詰まっているという感じだ。もっと言えば、観方によっては、けっこう弛緩している箇所さえ、見受けらえるように思う。あまり厳密に、質を問うことなく、やりたい要素をなるべく投げ込んでみただけの結果が、これなのではないかとも思われる。

これは"語り"や"言葉"を、あるいはある種の"政治"や"主張"までをも大胆に取り込んで、ほとんど作品そのものが崩れる寸前にまでごった煮にしたかのような「S/N」の考え方を踏襲しているとも言えるかもしれないが、「OR」はやはり「S/N」とは本質的に違う作品とも言えるだろう。ダムタイプにおいてはおそらく「S/N」と「OR」との間に、強い断絶の線が引かれている気がする。それはもちろん、言うまでもない古橋悌二の存在が、在る/無いということでもある。「OR」は、古橋悌二を除くメンバーたちによって作られた最初の作品である。