耐久

先週からクロード・シモンの「フランドルへの道」を、ゆっくりゆっくり、一行ごとに、誰が誰に何を言い、何を思い、その場所がどこで、彼らがどんな位置にいて、視点はどこで切り替わり、このあとどこへ場面が移っていくのか、それを一々、可能な限り把握しきった状態を保ちながら、時間はいくら掛かってもいいから、じっくり読んでいこうという試みを続けているのだが、これが思いのほか楽しい。

しかし、出来事を追えば追うほど、むしろだからこそなのか、目と鼻の先に突き付けられ嗅がされる匂い、湿度、雪、雨の冷たさ、気分の塞ぐような、夜の闇、何もかもが雨と闇に溶けているみたいな、馬舎の匂いと馬具の手触りの場所に、ひたすら戻ってくるかのような、そういった肌感覚ばかりが湧き出てくる感じだ。いくつもの短い夢を見続けていて、ふと意識を取り戻すと、そんなジメジメした最悪の場所にいる自分を見出し、またいつか別の夢へ意識が飛び…というのをひたすらくりかえしてる状態に近い。

若い頃の、乗馬だか競馬だかの思い出、女の子の思い出、お金持ち一族への屈託、母、妻のこと、それらの一つ一つは、正直どうでもいい、他人事な、くだらないようなことばかりが、それでも泡のように沸いては消えていく。現実の確からしさがあるとすれば、それは、この身がおぼえる不快感だけ。本を読むという行為と、不快な感覚をじっと耐えるという行為に、何らかの共有可能性があるとでも言うかのような。前にヴィスコンティの映画の、何時間もえんえんとスクリーンを観ていたときの感じを思い出しもする。