Mehldau

メルドーのめまぐるしい、今あるこの瞬間を二重にも三重にも平行させてばらばらに解体した欠片を波状型に投げつけてくるような旋律を受け止めていると、これはたしかにとてつもない、呆れるほどに突き抜けた仕事であると思うけれども、しかしこのものすごさは、いったいどこへ向かっているものなのか、この情熱は何に奉仕されてるものなのかと、若干いぶかしく思う心持が、かすかにわきあがる。

ジャズは、不自由さの枠を、できるだけくっきりさせる芸である、とも言えるだろう。私たちの音楽は、これほどの枠内でやってることなんですよと、それをひたすら確認し合い、そうだそうだと肯きあい、その愚かさを認め合い、喝采し合うようなものであるとも言えるだろう。

メルドーは、もともと俺たちは、本来こんなことをやってるような人材ではないのだ、ジャズごときにうつつを抜かしているような人間ではないはずなのだ。それが、何かの間違いで、こうしてジャズをやっている、ジャズには見合わないようなスペックで、このピアノを響かせて喚かせている、そのことのバカみたいな面白さが、俺たちの音楽なのだ、俺たちがこんなことをして、それが今のジャズと言われて、そんな世も末な状況それ自体を楽しむってことが俺たちの音楽を聴くということだよ、と、そんな風に語るかのようだ。

物事をきちんと、誰よりも優秀におさめること、聴衆の期待以上、お偉方の想定を越えた、すばらしい成果発表を、みんなで確認するのがジャズなのだとするなら、まさか、およそこの世のほとんどの出来物が、そんな私の成果発表に過ぎないのであるなら、それはたしかにつまらない。そんな風に考えてしまうこと自体がつまらないことなので、そこに自分の内側での葛藤はある。

そもそも何かへの挑戦ではない、そんな構えから自由になること、それがオーネット・コールマンらが試した、別の挑戦ではあった。それでも、どうしても、それは挑戦になってしまう。だから屁理屈は引っ込めて、黙って聴くしかないし、わきあがる興奮の感情をひとまず自分の枠内にリリースすることはするのだが。