モロイの国

ベケットの「モロイ」を、わりとじっくりガッツリと、ゆっくり時間をかけて読んでいる。それは「モロイ」を読むというか、じっくりガッツリと「モロイ」に耐え続けるみたいな、その時間に対して無駄な抵抗をしない、無条件に身をあずける、ということになる。
以下の引用は、二章に入って、「モロイ」を探す命令を受けたジャック・モランという男による報告文の一部。

私の国とはまるで違うモロイの国について私が知っていたほんのわずかなことについて述べておこう。なぜなら、途中の駅をとばして、どんどん問題の核心に触れるということが許されないというのが、この罰課の特徴の一つだからだ。だから、私は、もう今では知らないわけではないことを、あらためて知らないことにし、家を出たときに知っていると信じていたことだけを知ってると思わなければならない。そして、もし、私がときどきこの規則からはずれることがあっても、それはたいして重要でない些細な点についてだけのことだ。全体としてはこの規則に合わせている。それも、非常な熱意をもってしているので、誇張でなしに、私は、今日でも、たいていのときには、語り手というより発見者と言えるくらいだ。こうして自分の部屋で一人静かにして、私に関するかぎり事件がかたづいてしまった現在のほうが、薄のろ息子のそばで、格子戸につかまって、あの小道に立っていた夜と比べて、自分がどこへ行き、なにを待っているかをいくらよく知っているとしても、それはほんのわずかな差だ。そして、これから続くページのなかで、事件の厳密で実際の進行からはずれることがあっても驚くにはあたらないだろう。たとえ、シジフォスだって、いつも正確に同じ場所でからだを掻いたり、うめいたり、おどり上がって喜んだりすることまできめられていたとは、最近流行の学説を信じるかぎり、考えられない。それに、正しい港に、予想通りの時間で着きさえすれば、シジフォスがどの道をとったかということについては、人はあまりやかましくは言わないということさえありうる。だいいち、彼がそのたびに、最初だと信じていないとだれに言えようか。だとすると、それがシジフォスに希望を与え続けることになるのではないか、今日まで信じられてきたのと反対に、すぐれて地獄的な傾向であるあの希望というやつを。それにひきかえ、自分が終わりなく過ちを重ねるものを見るというのは、人を気楽さで満たしてくれるのだ。
 私が、モロイの国ということで理解しているのは非常にかぎられた地帯で、彼はそこの行政上の境界を一度も越えたことがなかったし、その後もたぶん越えそうもなかった。それが、彼には禁じられていたのか、そうしたくなかったのか、それとも、もちろん、異常な偶然の結果だったかなのだろう。この地帯は私の暮らしていた魅力あふれる地方から言えば北にあり、人によっては市と持ち上げ、別の人びとには村にすぎないと思われていた集落と、それを取り巻く田園とから成り立っていた。
(中略)
 バリババは、広くない割りには、ある種の変化に富んでいた。牧場と称するものがいくつか、ちょっとした泥炭地の原野、数か所の林、そして、境界に近づくにしたがって、うねるような、ほとんど笑みを浮かべたような光景が広がり、まるで、バリババがそれ以上先まで続かないのを喜んでいるようでさえあった。